モララーのビデオ棚in801板12

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551田×坂 1
シノの婚儀が終わってようやく気忙しさから解放された、夜。
悌と智のケンシは何とはなしに二人、廂に佇み闇に浮かぶ月を眺めていた。
「ま、シノはようやく長年の望みがかなったわけだ。ハマジ姫と末永く仲睦ま
じく過ごされるんだろうなあ」
まあ、あの二人のことだ。俺なんかが心配するまでもないな。
あはははは、と笑うコブンゴに、隣のケノが唇をつりあげた。
「人の心配する暇があったら己のことを考えろ、と言われるだろうよ」
「おのれの、こと?」
中天にある月を見上げていたコブンゴは、ぱちくりと眼を瞬かせた。
「いくさも治まったし、俺たちもサトミの家中から縁談を持ち込まれるのは
時間の問題だろ」
「縁談!」
大声を出したコブンゴに、ケノが薄く笑う。コブンゴの灼けた頬に血が上った。
「そんなに驚くことでもないだろう。ハッケンシはサトミの宝。その存在を永劫、
安房の地に結びつけておこうと思案するのはサトミからしてみれば当然の理。
そしてケンシも人の子。ましてや若い独り身となれば、女をあてがってしま
うのが一番手っ取り早い」
顔にまったく似合わない辛辣な口調で、ケノはサトミの内情を解きほぐしてみ
せる。普段ならばその声に聞き入っているだけなのだが、コブンゴは傍らの
存在をそっと窺った。
552田×坂 2:2006/01/09(月) 21:09:19 ID:XlMuA27E
「け、ケノは、どうするんだ」
口から零れた問いは、情けないほど裏返っていた。
「俺か」
ついとケノは簀子縁に降り立った。くるりと反転し庭を背に高欄に腰かけ、
コブンゴを見上げてからりと言う。
「俺はいい。俺より美しい女など、滅多にいないからな」
高慢な言い様も、月光を浴びた貌の冴え冴えとした美しさに見惚れたコブ
ンゴには、うなづく他はない。
見惚れていて、その唇が紡いだ言葉を聞き逃した。
「……え?」
雲が月を覆い隠したのか、眼下にある白い貌が陰になる。
「コブンゴは。……どんな女を娶るのだろうな」
「おれ、は」
「お前は強いし、気持ちの良い男だ。お前なら、いくらでも良い嫁御の来
てがあるだろうよ」
幾ばくか口早なケノの声音。表情は変わらず見えない。それが不安になって、
コブンゴは簀子縁に足を踏み出した。
その時、ちょうど雲が切れた。
ケノの白い整った顔が露わになる。
出会ったときから変わらない、美女と見まがう容貌。年を経たというの
に翳るどころか尚輝きを増す華やかさに象られた貌の中で、唯一強い光
を放つ瞳。ケノをケノたらしめている意志を宿した双眸が、まっすぐにコブン
ゴを見つめていた。
553田×坂 3:2006/01/09(月) 21:10:35 ID:XlMuA27E
気がつけば、思いもかけず間近にケノと眼を合わせてしまっており、コブン
ゴはうろたえた。
うろたえて、その己にさらに焦りが増す。
ケノはコブンゴの答えを待っている。

俺の、嫁の話を。
嫁?

泳がせた目線の先にケノの顔が飛び込んでくる。コブンゴの口からようやく
放たれたのは割れた大声だった。
「俺もっ。俺もケノと同じだ!妻は、娶らない!」
「な、に?」
夜半には不似合いな程の大音声は、却って眼前にいるケノには聞き難かっ
たようだ。
「すまん!」
耳を押さえたケノに、コブンゴは頭を下げた。
「……もう少し小さな声で話せよ。で、なんだって」
「だから、お前と同じで、俺は妻は娶らんと……」
水を向けられて、コブンゴは口篭もりつつ先程の言葉を繰り返す。
「何を言っている」
ケノが眉をしかめた。
「俺と、同じ?どういうことだ」
コブンゴは唾を飲み込んだ。拳を握り締める。
「あんたより美しい女なんていないから。あんたより好きになれる女なん
ていないから。だから、俺も妻はいらない」
一息に捲し立ててしまってから、我に返った。

己は何を言ったのか。何を、告げてしまったのか。
554田×坂 4:2006/01/09(月) 21:11:11 ID:XlMuA27E
高欄に掛けていた筈のケノの手はだらりとさがり、驚きに見開かれた瞳にコ
ブンゴの間の抜けた姿が映っていた。
「……」
「あ……」
呆然と互いの顔を見つめていたのはほんの数瞬の間だった。ケノが大きく
吐息をついて腕を組む。
「コブンゴ。お前は何か思い違いをしている」
子供に言い諭すような口調だった。
「出会いが妙だったから仕方がないが。俺は十六のアサケノではない」
「わかってる。俺の好きなのは、イヌザカケノ、あんただから」
ケノが苛立ったように舌打ちをした。
「だから。男の俺は、お前の好きな女田楽のなりはしないんだ」
「でも、今だってあんたが一番綺麗だ」
婚礼に列席した鮮やかな色合いの直垂は、ケノによく似合っていた。
しかしケノは、ふん、と鼻で笑った。片腕をあげ、元結に手をかける。
「確かに俺は嫁は取らぬが、主君たるサトミのために、これからもできうる
限り勤めるつもりだ。間者でもなんでもする。だからこんな美麗な格好
などしていられない」
ケノは髪を振りほどいた。漆黒の髪が、ケノの顔にかかる。
「俺は変装が得手だからな。どこぞの国で、乞食や軽業師に扮して虱のわ
いた体になっておるかもしれぬ」
髪をざんばらに流して、そう嘯く姿さえ美しい。
「乞食だろうが、虱まみれの汚い行き倒れだろうが、俺はあんたが好きだ」
コブンゴは身を乗り出し、ケノの両肩を掴んだ。月の光を借りずとも見える
距離で相手を見据える。
「好きなんだ、俺は。あんたの姿も、その中身も。好いた人間を放って別
の女を娶れるほど、俺はできた男じゃないんだ」
555田×坂 5:2006/01/09(月) 21:12:27 ID:XlMuA27E
思いの丈を込めた告白は、しかしケノの応えに破られる。
「以前に言ったな。俺は、妻にはなれぬ」
きっぱりと言い切られてコブンゴは言葉に詰まる。ケノの肩を掴んでいた大
きな手が滑り落ちた。
「コブンゴ」
振り仰ぐ顔はコブンゴの言葉にもまったく揺れを見せていないように見え
た。
「すまん、今晩のことは忘れてくれ」
いたたまれず、ケノの顔から目を逸らしたままコブンゴはその場から去ろう
とした。だが袖口を掴まれ、顔をあげる。
「忘れてなどやるものか」
ケノが、瞳を眇めてこちらを睨んでいた。
「俺は、お前の妻にはなれぬ。だが」
ぐいと胸倉を引き寄せられ頭を何か柔らかいもので包み込まれる。
容易には纏えぬ鮮やかな直垂の色合いが視界に飛び込んで、コブンゴはケノ
の腕に抱き込まれていると知った。
絹のすべらかな感触にされるがままになっていると、ふわりと直垂の囲いが
解かれる。
黒髪に縁取られた強い眼差しがまっすぐにコブンゴを見据えていた。
「コブンゴ。お前と一緒なら、畜生道に堕ちてもいい」
「――ケノ」
「返事は」
「本気、か」
問う声は震えていた。
556田×坂 6:2006/01/09(月) 21:12:58 ID:XlMuA27E
「返事は!」
焦れたようにケノが声を荒げる。
「否やがあるはずがないだろう!」
叫んで、衝動のままにケノを抱き上げる。細身の体は、易々とコブンゴの腕
におさまった。
腕にある重みを嬉しく思いながら、広廂にあがってくるくると回る。つ
られるようにケノの鮮やかな袖が揺れる。
それを眺めるうち、コブンゴの頭にふと思い浮かぶ。
「あ?畜生道って。俺たち犬なんだからまんまでいいんじゃなのか」
「……お前は、馬鹿だな」
上から降る呆れた声音が、コブンゴには何よりも心地良い。
「ケノより頭のいい者がおるものか」
「本当に、お前は……」
溜め息をついて髪をかきあげる姿にいとおしさを感じて頬を摺り寄せた。
「こら、髭が痛い」
「すまん!」
慌てて顔を離すと、そのまま強く抱きしめ返された。
「謝るなら、このまま俺を閨に連れていけ」
「承った」
「落とすなよ」
「任せておけ」
弾む声でコブンゴは請合った。
月が翳ろうとも、腕にある者の顔はくっきりと見える。
中天にあった月は今はわずかに傾いていた。