曇天の空、暗い室内には二人の男。
一人は上座でゆるりと煙管を咥え、一人はじっと向かいの男の挙動を見つめ続けていた。
時間だけが流れていくのに厭いた上座の男が細く紫煙を吐き出す。
「俺の顔に何かついているか?」
「あっ…いや、伊達殿は…その」
煙管を咥えた男――イ尹達正攵宗は慌てふためいて視線をひざ上に落とした向かいの男に
視線をくれると楽しそうに口角を上げた。
向かいに座る男に好いた、惚れたと何度も何度も言われ続け先だって
その想いに折れるように応えた正攵宗だが、応えた途端相手の男の態度が急変したのには驚いた。
目を合わせれば赤面し、触れ合えば身を硬くする。
今まで真面目くさった顔で何度も恥ずかしくなるような言葉を紡いできただけに、
その豹変振りは正攵宗の目に格好の獲物として映しだされていた。
当初、想いに応えたらそのまま突っ走ると思ったと呟いたところ
男は「伊達殿が某を想っていてくださるというだけで、胸がいっぱいになるでござる」と
見ているこっちが目をそらしたくなる表情で胸に手を当てながら答えていた。
(初心過ぎる…)
これからどうからかってやろうかとニヤニヤと笑みを浮かべた正攵宗の心のうちも知らず
目の前でうつむいていた男がちらりと顔を上げたので、
正攵宗は慌てて顔を引き締め不機嫌そうな表情を作った。それを見て男がまた口を噤む。
「早く言え」と急かしてみれば意を決したような必死の形相で男は叫んだ。
「伊達殿は!そ、某の…っ!」
「おまえの?」
「某の名前を、呼んでくれない…でござる、か?」
「…っ」
尻すぼみになる言葉を理解した途端、自分にとって分が悪い話の方向に進みそうで
正攵宗はしまったと小さく舌打ちした。
「『おい』『お前』伴天連の『ゆう』とやらでも夫婦のようで
某的には問題ないでござるが…その
こ、このような関係になってから一度も名前を呼ばれてないでござる」
「Ah〜…記憶違いじゃねぇか?」
どこか後ろめたそうな正攵宗にしょぼくれた犬、もとい男が悲しそうに正攵宗を見つめる。
「某が気づかなかっただけかも知れませぬな…しかし
今一度呼んでくださらないだろうか…?」
実際、正攵宗は記憶違いだと言ったが向かいに座り期待に瞳を輝かせている男の名前を
呼んだ事はない。
今までに一度もない。
「…」
期待の目と沈黙が重苦しくて思わず逸らしたところで正攵宗は障子に写る影に目を留めると
その口元が再びにんまりと笑みをかたどった。
「イ尹達殿?」
障子から目を離し滑るように視線を向かいの男に向ける。多少の色も添える事も忘れずに。
途端男の顔が赤みを帯び正攵宗は思いついた計画がうまくいく事を確信した。
男が何か言おうと口を開いたところで正攵宗は小さく囁いた。
「…ゆき」
それは暗い部屋に溶けたかのように音になってなかったが、その言葉を聞いた男が
ぶるりと震え目を見開いた。
その変化を見てから正攵宗は再び障子へと視線を投げた。
「…が降ってるな」
「イ尹達殿…」
恨めしそうな目で見つめられるがその絡む視線を振り切り煙管を置くと
立ち上がり障子を開けた。
冷え切った空気が肌を撫でていき白い吐息が漏れた。
「こりゃあ…積もるな」
そう呟けばいつのまにか背後に立っていた男を振り返る。
どことなく力なく降る雪を見つめている男を正攵宗は少しだけ、ほんの少しだけやりすぎたかと
反省し、「おい」と声をかけた。その声音に多少怒ったような響きが混じっており
男は慌てて居住まいを正した。
「つ、積もるならば某すぐに帰らねばなりませぬ!」
後ろ髪引かれる思いだとか、帰ってからも一日も忘れませぬだとか言い続ける男に
正攵宗は黙れとその頬を軽く張った。
正直面白くない。帰れという意味で積もると言ったわけではなかったのだ。
「泊まっていけ」
叩かれた頬を押さえ呆然とする男を畳へと押し倒し正攵宗は笑った。
「俺に名前呼ばせたいんだろ?」