……僕も物好きだな。
ほんの少し俯きがちの白い横顔を眺める。なぜ僕は今鳥君の傍にいるのだろう──今さらそんな疑問が頭の中によぎる。
いつでも自分が正しくて、周りが間違っていると考えている人間。融通の利かない、人の意見を聞かない、我が儘な男。
まともに友達も作れず、人の好意や親切を受け止めることも出来ない臆病者。今鳥君の傍にいたところで良いことなど一つも
ありはしないのだ。
……なのに、なぜ。
心の中で呟く。目を閉じると、腹の底で黒い虫がざわざわと蠢くような気がした。
自分の身体の一番奥の、どこかにしまわれているはずの答え。
それを知りたいと、黒い虫たちが叫び声を上げる。
──なぜ。なぜ。なぜ?
いいや、僕は知らない。そんなことはどうでもいい。今鳥君のことなんか、考えたくもない。
頭の中にわんわん響く声を無理矢理押さえつける。身体を正面に戻して黒板を見据えると、遠く聞こえてくるチャイムの音と
共にひどい吐き気がした。
五限終了のチャイムが鳴る瞬間、僕はいつも妙な虚脱感に襲われる。
今日も全てが終わったのだ、という達成感と、また一日が過ぎ、明日へ進まなければならないことへの不安と。
机の上に教科書を放り出したままぼんやりしている僕に声をかけて、クラスメイトが次々教室を出て行く。
軽い足取り。ざわめき。たくさんのさよならを告げる声。それらが混じり合って放課後の学校をさざ波のように取り巻いている。
しばらくその音に耳を傾けた後、ようやくのろのろと帰り支度を始めると、今鳥君がするりと歩いてきて僕の机の横に立った。
「……なに?」
「三年のやつらに呼び出された。屋上」
「……ああ、そう」
鞄に教科書を詰め込みながら気のない返事を返す。
今鳥君は絶対に自分からついてきて欲しいとは言わない。いつもならここで文句を言いながら僕もついていくと言い出すところだった。
いつもなら。
黙ったまま顔を上げて今鳥君を見つめると、今鳥君は一瞬ひどく不安そうな顔をした。そしてすぐにまたいつもの超然とした表情に戻る。
馬鹿だなあと思う。そんなに怖いなら呼び出されることなんかしなきゃいいのに。
何でもないような顔の隙間から不安を滲ませる今鳥君に、胸の奥がちりちりと焦げるような感情を覚える。
何の感情なのか、それは判然としないけれど、確かに今鳥君は僕の心を揺さぶるようだ。いつも。
……だから傍にいるのか。
まるで他人事のようにぼんやりと思う。
そう、他人事だ。彼が僕の感情を乱すから、だから何だっていうんだ。今鳥君がどうなろうが知ったことじゃない。
冷たい目で彼の全身を弄るように見てやると、ふいに腹の底から怒りが湧いてきた。
誰かが作り笑いを浮かべるたびに、今鳥君がひどく嫌な顔をするのを知っている。
例えば、人付き合いを円滑にするためにしたくない仕事を引き受けること。相手が間違っているとわかっていてもこっちが譲ること。
そういうことの全てを今鳥君は拒絶する。そして蔑むのだ。
何様だと思ってるんだろう。いつもいつも、自分だけは汚れてないって顔なんかして。綺麗な綺麗な唇から、人を傷つける正論ばかり吐き出して。
僕は笑ってこなしてやるよ。自分の意志を曲げることだって、ずるくなることだって、笑顔で生きてくためには必要なんだ。当然の行為。生きていく
ための知恵。軽蔑されるいわれなんかありやしない。出来ない君がおかしいんだ。
馬鹿な今鳥君。
必死に意地を張り続けたその結果、周り中みんなから嫌われて、君は一人ぼっち。
そう、世界中の誰も、君の味方になどなりやしない。
──可哀想に。
ああ君、可哀想にね。
「……今鳥君はいっつも正しいもんなあ、きっと馬鹿なやつらに呼び出されたって怖くも何ともないんだよね」
ぼやけて霞む思考のままでぽつりと呟くと、僕はうっすらと笑みを浮かべた。
「ごめんー、僕、俗物だからそういうの怖くて。でも今鳥君は平気なんだよね?誰が何を言ってもみーんな切捨てちゃうもんね、凄いよなあ」
青みがかって見えるほど白目の澄んだ今鳥君の目が、凍りついたようにその動きを止める。震えだす指先。それらに気づかないフリをして、
僕は邪気のない笑顔を作ってみせる。
引き攣る今鳥君の顔が、なぜだかとても心地良かった。
「ほら、行ってきたら。それでまた、汚いやつらに一言言ってやればいい。今鳥君得意でしょー?そういうの」
もう一度、思い切り強く力を込めて笑いかける。
「行きなよ」
掠れた声が一瞬何事かを言いかけて止める。僕は興味を失くしたようにふっと視線を逸らしてやる。
沈黙の後、かたんと机にぶつかる音がして、よろけるように不規則な足音が遠ざかった。
──行ったのか。
廊下に響いていた靴音の最後の残滓が消えると、ふいにどっと力が抜けた。
あれほど愉快だった気分が嘘のように反転し、僕はこみ上げる吐き気を抑えるように机に突っ伏した。
身体の中がじわじわと焦げていくような気がする。
音も立てずに。炎も上げずに。
熱が。
どうしてこんなに苦しいのだろう。
誰からも好かれて、何でも出来て、悩み事なんか一つもない優等生の自分。
醜い心を押し込めて笑う、明るい自分。
こんな自分が間違ってるなんて思っちゃいない。
なのに、どうして今鳥君を見ているとおかしくなってしまうんだろう。
どうして僕のこころはこんなふうになってしまったんだろう。
今鳥。今鳥今鳥今鳥。頭の中で、狂ったように今鳥君の名前を繰り返す。
目を閉じると、走り去る今鳥君の後ろ姿の残像が見えた。
瞼の裏。白いシャツの、一人きりの背中。
「あ……」
ふいに頭がはっきりとして、僕は一気に青褪めた。
誰かに呼び出されているといってなかったか。
──ひとりで行かせてしまった。
がたんと椅子を揺らして立ち上がる。教室のドアを開いて廊下に踏み出すと、
一瞬、腹の底で黒い虫が羽を震わせたような気がした。
誰もいなくなった廊下は、昼間の喧騒が幻だったかのように静まり返っている。
いつもなら太陽の光を反射して白く清潔に光っているはずのつるつるした床は、今は薄青い夜の色に染まっていた。
夜の色は黒ではない。特にこんな、夏も近い季節の夜は。
はあはあと激しくなる自分の息づかいだけがやけに頭に響いて、僕は走る速度を緩めた。
夜は黒じゃない、といったのは今鳥君だった。いつだったか、やっぱり彼が呼び出されて、二人で夜遅く帰っていたときのことだ。
街灯に照らされた夏の夜、空気は確かに透き通るような紺色をしていた。
ほら夜は青い、と。
いつものように散々その態度の悪さを詰られた後で、のんきにそんなことを言っている今鳥君に僕は呆れたのだったけれど。
それでも、その夜は確かに海の底のように美しかった。
──今鳥君。
彼が何を考えていたのかと今さらになって思う。
誰の言葉も聞かない今鳥君。自分の心を曲げることを許さない今鳥君。
どんなに周りを傷つけても、どんなに周りに疎まれても、彼の目は美しいものしか見ず、彼の口は正しいことしか吐き出さない。
それを潔癖だとか誇り高いだとか言うのなら、彼は確かにそうなのだろう。
けれど、本当はそんなふうにして生きていくことなどできっこないのだ。
とげとげの殻で汚いものを拒絶して、自分だけの理想の世界に閉じこもって生きていくなんて、
そんなことができるわけないのだ。
ふいに悲しくなって、僕は立ち止まった。
(今鳥君)
君はいつまでそうしてるつもりなんだろう。
本当のことだけで、正しいことだけで出来た世界なんてありはしない。
ほんとうはわかっているくせに。
君はそれを、誰よりも知っているくせに。
(まだ諦められないの?)
──可哀想な、今鳥君。
軽く頭を振って再び走り出す。ソーダ水のゼリーのようにぶよぶよと甘く青い空気に満たされた
廊下は、なぜだかひどく前に進み辛かった。