春になると、かれらは交尾に入る儀式、詩人のヘルダーリーンが白鳥で見たのを詩で
たたえた、美しく優雅に首を水にひたす動作を行うのが見られる。
この儀式を終わってかれらが交尾に移ろうとすると、当然どちらも相手にのりかかろうとし、
雌のように水面にぴったり身を伏せようなどとは思わない。
こうして事の成り行きがとどこおると、かれらはお互いに少々腹を立てるが、
やがてその試みを特別の興奮とか失望もなくあっさりと放棄する。
どちらも相手をいわば自分の妻だと考えており、妻が性的にいささか不感症であって、
今はつがいたがらないということは、大きな大きな愛に目立つような破たんをきたすことにはならないのである。
春が深まるにしたがってこの雄のガンたちは、交尾することができないのだと
いうことをだんだんに知って、もう相手にのりかかろうとは全然しなくなる。
以上、板違いスマンカッタ。
だがおもしろいことに、このことを冬の間に忘れて、翌春は希望を
あらたにして互いにつがおうとするのである。
冬のソナタと人は言う。
勝ちどきと、ほんらいの交尾衝動である性との間に存在する関連を
明らかにすることは、たやすくはない。いずれにしても、その関連は
ごくゆるく、直接に性的な要素は野生ガンの生活の中では、かなり
従属的な役割をはたすにとどまっている。
ガンのつがいを生涯にわたって結び合わせているのは勝ちどきであって、
夫婦間の性的関係ではない。二個体の間に強い勝ちどきの連帯が
時に温帯となって
存在するということが、ある程度まで性的関係が生じる「道を開く」、
つまりその成立を促す。
二羽のガンが、これは二羽とも雄であることもあるが、非常に長い間この儀式のきずなによって
結ばれていると、ついにはたいていの場合交尾しようとする。
だが逆に、一歳の、したがってまだ生殖可能となるにはほど遠い幼鳥の
場合に早くも現われることの多い交尾関係は、これがなんらかの意味で
将来の勝ちどきの連帯を作っていく力になるとは思われない。
15 :
風と木の名無しさん:2005/06/10(金) 04:57:49 ID:6aCQvXvO
そこでダディクールの登場ですよ。
二羽の若いガンが交尾を繰り返しても、このことから彼らが将来つがいになるという
なんらの前提も立てられないことがしばしばある。
これとは反対に、勝ちどきの申し出のごくわずかなそぶりでも若い雄の側からあれば、
雌がこれに答える限りは、両者がたぶんきまったつがいになるにちがいないという予言の
裏づけになるのである。
このような、交尾という反応がまったく何の役割もはたさないような微妙な
関係は、真夏のころから初秋へかけて完全に解けてしまうようにみえるのだが、
若いガンたちが二年目の春を迎えて本気で求愛を始めるとき、その関係が
前年の恋人の間に復活することが非常に多い。
そして事態は急展開を迎える・・・!
急展開というか、ドラマチックな展開は4ページほど先になります。申し訳ない。
ガンの場合の勝ちどきと交尾との、ゆるい、そしてある意味では一面的な関係は、
人間の場合にも恋愛と粗野な性的反応様式との間に存在する関係とかなり類似
している。「きわめて純粋な」恋愛は、きわめて微妙に繊細な方法で肉体的接近に
至るが、しかしこの肉体的な接近が結びつきの本質的要素とは感じられない。
これとは逆に、最も強く交尾衝動を解発する刺激状況と相手とは、激しく恋し
合って求めるそれとはかならずしも同じではない。
むしろより変質的である
なんか好きだこれ
ハイイロガンにおいても人間の場合と同じように、このふたつの機能は完全に
分離した、独立のものとなることができる。とはいえ、もとより「正常な場合には」、
両者は全体の一部としてまとまっており、それが種を保つ働きを果たそうとする
なら同一の個体を相手としていなくてはならないのだ。
正常という概念は、生物学のあらゆる分野で最も定義しにくい概念のひとつ
であるが、これと同時に残念ながら、この反対の病的という概念と同様に、
なしではすませられないものだ。わたしの友人であるベルンハルト・ヘルマンは、
ある動物の構造とか行動に、何か特別に奇妙な点、不可解な点を認めると、
一見素朴をよそおって、「これは進化の設計者の意向なのか」という問いを
立てるのがつねだった。
わたしは、そんな彼に禿しく萌えていた
事実「正常な」構造や機能の特徴として*ただひとつ*考えられるのは、それらの構造や
機能の*種を保つ働きのもつ淘汰の圧力のもとでは*、まさにこのかたち以外には
ありようがないことが確かめられた場合である。正常をこう定義すると、つごうの悪いことに、
まったくの偶然でそうなってしまっているだけで、非正常とか病的とかいうには
まったくあたらないものも、いっさい排除されてしまう。だが正常の意味は、
観察した個々の例から算出した平均値なのではなくて、むしろ種の変化
によってどの個体にも形作られている*類型*であり、この型はあきらかに
実際には*純粋な*形で現われることはめったに、あるいは決してない。
だがそれにもかかわらずわたしたちがこの純粋に観念的な構成を必要とするのは、
異常の障害を正常から区別するためである。動物学の教科書では、まったく
無傷の理想的なチョウのことをこの種の代表として述べないわけにはいかないが、
そんなチョウは絶対に存在しないものだ。なぜなら集めた標本を見ると、どれも
それぞれ違ったふうにできそこなっていたり、そこなわれたりしているからである。
これと同じく、ハイイロガンとか他の動物の「正常な行動」のそうした観念的な
構成というものもなくてはならないものだ。このような行動は、動物が何の
妨げも受けない場合に行われるはずだが、そんなことは無傷のチョウと同様に、
じっさいにはありえないことである。
形態知覚の才能に恵まれている人ならば、ある構造とか行動の
理想形をまったく直接的に見ることができる。つまりそういう人は、
型のもつ要点を偶然的な小さな不完全さの背景から切り離す
ことができるのだ。
わたしの先生だったオスカール・ハインロートは、今では古典的になったかれのガン・カモ類の
研究(一九〇五年)の中で、ハイイロガンの生涯にわたる無条件の誠実な結婚生活を
「正常な」行動だとして述べているが、かれはこれで妨げのない場合の理想型というものを
まったく正しく抽象化して見せたのだった。
このような型は、ガンの寿命が半世紀以上にもわたるものであり、その結婚生活が
寿命よりわずか二年短いだけだという理由からしても、かれが実際にはけっして
観察することのできないものだったのだ。それにもかかわらず、かれの説は正しい。
Σ(゚Д゚;≡;゚д゚)
そしてかれによって作られた型は、行動の記述と分析のために欠くことの
できないものである。たくさんの個別の例の平均から算出された基準では
役に立たないだろう。
最近、この章を書く直前に、わたしはヘルガ・フィッシャーといっしょに、彼女のガンの
記録[プロトコル]をひとつひとつ十分に検討していたとき、もとより右のようなことを考慮に
入れてはいたが、わたしの先生が述べたような相手が死んでもなお誠実を絶対に守る
結婚が、わたしたちの無数のガンの中に実際には思ったよりまれだということがわかって、
幾分がっかりしたものだった。
するとヘルガが、わたしのがっかりしたようすに、むっとして言った言葉が名言だった――
「あなたの気持ちがわからないわ。*ガンだって所詮は人間にすぎないじゃないの*」。