経世会・清和会・宏池会・志帥会

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62中川一郎物語1青嵐会
>>47>>53
リクエストにお答えして、現代の渡世業界に大きな影響のある、
数奇な物語をひとつ。それは北海の白熊と渾名された一人の男
を軸としたとても波乱に富みかつ物悲しい話である。

北海道出身の中川一郎は、若くして自民連合会内の有力一家、
吉田宗家大野一家系列の組織で渡世稼業をスタートさせた。
大野一家は吉田宗家総長の吉田茂の腹心大野伴睦を初代とする
有力一家で、中川が渡世に入った頃は全盛で、大野が自民連四代目
会長の池田勇人吉田宗家池田一家初代総長のもとで自民連副会長
をつとめるなど大いに勢力を振るった。しかし、大野の急死後は
跡目を巡って一家は分裂、組員も佐藤一家などの有力組織にどん
どん流れ、中川が持ち前の馬力で若くして一家直系親分になった
とほぼ同時に三代目が一家を解散し、中川は自民連の中でいきなり
一匹狼として生きなくてはならなくなった。

ここで中川は持ち前の馬力と目利きを働かせ、右翼活動に活路を見い
出した。二足の草鞋として右翼団体の青嵐会を結成、学生ゴロ出身で
文才があるがこれまた一匹狼の石原組組長石原慎太郎らとともに過激
な行動で名を馳せた。
63中川一郎物語2執行部入り:04/03/03 19:50
この中川の行動力に目をつけたのが、鳩山總家岸一家二代目総長で
清和会の創始者の福田赳夫だった。彼はもともと右翼に影響力があ
った関係で中川と知り合い、物心両面で支援して清和会の別働隊
として育成した。当時福田は最強最大組織の吉田宗家佐藤二代目
総長田中角栄率いる七日会と激烈な抗争を展開していたので、そ
れに対抗する有力戦闘部隊として中川に期待したのである。

ただ、抗争の戦線そのものは中川らの善戦にもかかわらず常に
七日会側が優勢であったが、七日会の無法ぶりについに警察も
頂上作戦を展開し、首領の田中を逮捕収監し七日会を解散に
追い込んだ。このため、動きがとれなくなった田中は、宿敵
の福田が自民連の会長に就くのを容認し、ここに福田は念願
の自民連八代目会長の座に就くことになった。そして、別働
隊として苦しい抗争中に福田の為に砕身した中川は、大一家
に属しないものとしては異例の抜擢をうけて自民連執行部に
名を列ねることになった。
64中川一郎物語3中川一家結成:04/03/03 19:52
しかし、その喜びも束の間、田中が保釈で娑婆に出てきて、佐藤一家
を再結集、新たに木曜会を組織して清和会への激烈な反撃を開始した。
はじめは警察の目があることだと楽観していたのがあだになったのか、
池田一家宏池会の大平と連合して凄まじい襲撃を繰り返す木曜会側の
攻撃に清和会側は受け身にまわる一方で、たちまち反撃不能の状態ま
で追い込まれた。そしてついに福田は、中川が泣いて止めるのを逆に
笑ってなぐさめ、会長退陣を決断し、その座を宏池会の大平に明け渡
した。そして同時に中川も執行部を退任した。

その後、中川はかねてからの福田との約束を実行に移し、青嵐会以来の
同志である石原らとともに自分の一家である中川一家自由革新連合会
を結成し、一家初代総長兼連合会初代会長に就任した。連合会理事長には、
中川一家石原初代となった石原慎太郎が就任し、中川を支えることになった。
北海道の田舎極道が、自民連内の大一家に伍する一家を一から結成する
という、ドラマチックな出来事であった。
65中川一郎物語4十一代目争い:04/03/03 19:53
中川は、自民連九代目大平の急死後十代目をついだ鈴木善幸吉田宗家
池田一家四代目総長兼宏池会会長の下で再び自民連執行部に入り、
連合会の実力者の一角としての地位を固めた。

そして、鈴木の突然の会長退任後に行われた後任会長選びに際しては、
福田の後援をあてに十一代目への名乗りを上げた。以前から、次は
中川を押してくれるとほのめかしていたし、具体的には清和会三塚組
の三塚博や警察崩れの清和会亀井組組長亀井静香らを中川一家に移籍
させるとの話も進んでいたからである。しかし、以外にも福田は、
清和会の跡目の安倍晋太郎清和会若頭を十一代目候補として名乗らせ
た。そして、それでも中川の下に馳せ参じると言っていた三塚、亀井
らも結局中川に助力することはなかった。結果、戦いは、木曜会
と宏池会の援助を受けた鳩山總家河野二代目総長中曽根康弘が圧倒的
に優位に進め、ほぼ完勝の状況で抗争を制し、十一代目に就いた。
中川は人数と資金で抗すべくもなく、特に最小一家である弱味のため
か中曽根陣営のねらい撃ちにあい、もっとも多くの損害をだして
惨敗した。
66中川一郎物語5中川一家崩壊:04/03/03 19:55
惨敗した中川は、その翌年突然、ホテルで変死体で発見された。
前年の跡目抗争で莫大な借金を抱えたからとも、また、自民連最高
実力者で中曽根の黒幕の田中に逆らう形で出馬したため圧力で潰
されたとも、あるいは今や安倍を押す福田が中川を邪魔になり追
いつめたからだとも、さらには、中川組組長代行で地元北海道を
仕切っていた鈴木宗男に裏切られ追いつめられたためともいわれ
ているが、そもそもその死因すら自殺か他殺か謎である。警察は
検死の結果自殺としているが、ユニットバスの下段の蛇口で首を
吊って自殺したとの発表を信じる者は少ない。

中川一家二代目自由革新連合会会長には石原慎太郎が就いたが、
当時中川程のカリスマ性もなく政治的力量も未熟だった石原に
一家の運営は無理で、程なく清和会に吸収され、一家、連合会
は消滅した。

中川組は長男の昭一が、東大卒のエリートサラリーマンの地位を
投げ打ち、二代目を継いだ。中川を裏切ったとされた鈴木は組を
破門されるが、組員多数を引き連れて独立して鈴木組を結成し、
自民連に加入した。
67中川一郎物語6その後1:04/03/03 19:56
清和会に加入した石原は、清和会若頭補佐にまでなり、自民連会長
候補として戦ったこともあったが、最後まで主流になることはなく、
引退。得意の執筆活動に入る。しかし、自民連の親戚組織で東京を
仕切っていた都会が、五代目の青島会長の時に自民連との親戚付き合い
を反故にして大混乱となり、五代目が引退に追い込まれたのに乗じて、
石原は突然現役に復帰して六代目を奪った。そして自民連との親戚
つき合いを復活させるとともに、都会を強力組織として再生させ、
自民連の一部を引き付ける勢いを見せている。

三塚は、その後、安倍会長のもと清和会の若頭になり、安倍の急死後
の跡目争いを制して岸一家四代目総長清和会会長に上り詰め、自民連
本部長までつとめ、引退した。

亀井は、三塚会長のもとで清和会本部長をつとめ、五代目争いで利
あらずと見て清和会を離脱し、それまで清和会内の親睦組織だった
亀井睦会を母体に一家を形成し、後、同じく分裂した河野一家と
新たな組織志帥会を結成し、会長代行に就任した。そして、自民連
本部長をつとめるなど、自民連内の実力者としての地位を固め、
二代目江藤会長の引退後、志帥会三代目会長に就任した。しかし、
二度の清和会との自民連会長をめぐる抗争に敗北して求心力を失い、
会長代行で河野一家六代目総長の平沼赳夫にその座を奪われるのも
間近との噂が絶えない。
68中川一郎物語7その後2:04/03/03 19:57
鈴木宗男は、経世会会長職を巡る争いに端を発した佐藤一家内部分裂で、
勢力が6割程に低下した佐藤一家平成研究会に加入、佐藤一家四代目の
小渕平成研究会会長の右腕で平成研究会副会長兼理事長の野中広務の
股肱として、佐藤一家平成研究会の勢力の回復に奔走した。そして、
そのかいあって小渕が自民連十八代目会長に就任するや、自民連執行部格
会長秘書室長につき、野中の手足として辣腕をふるった。そして、
小渕急死後、橋本五代目体制の下で、ついに平成研究会理事長補佐に
まで上り詰め、将来佐藤一家平成研究会の大立物となることが期待されて
いた矢先、年来のロシアルートの覚醒剤密輸が警察に摘発され、自民連、
佐藤一家平成研究会を絶縁され、引退状態を余儀無くされている。

中川昭一は、二代目襲名後、中川一家が清和会に吸収されると、
鳩山總家岸一家三代目安倍分家中川二代目として渡世の道を歩んだ。
そして、実力者亀井の一家内親睦会亀井睦会に参画し、亀井が
岸一家清和会を離脱すると行動をともにして志帥会結成に参加し
志帥会若頭補佐亀井睦会理事長二代目中川組組長となった。
骨のある武闘派としてならし、今や自民連慶弔委員長に就任し、
平沼の次の志帥会会長候補、さらには自民連の会長候補に目
されている。清和会の将来の有力会長候補は安倍晋太郎の長男
の安倍晋三自民連理事長。親子の因縁が子にまで及んでいるよ
うだ。