PRIDEのフィクサー、作家として
最近ではラジオ、テレビにも進出してる百瀬博教氏ですが、
ヤクザの世界での実力はいかがなものなんですか?
格闘技板では、あまり詳しい人がいなくて情報が錯綜してます。
「戦後最高最良の不良」なんてキャッチフレーズで
色んな場にしゃしゃり出ていますが、アウトローの世界での
評判、実力のほどはいかがなものなんでしょうか?
教えてください。
酒が飲めません
3といえばミングキタ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(σ´∀`)σ ゲッツ━━━━━━━━━━━━━━ !!!!
age
age
>>1
おい、お前!タブーに触れるなよ・・・
この程度のレスじゃ…何者かサパーリ分からん
尊父 百瀬梅太郎氏について博徒の沿革から説明する必要がある。
1.幕末から明治後期まで(関東)
幕末における小金井小次郎は慶応末に伊豆遠島より帰還して後、明治14年に死ぬ
まで領土拡張政策を推し進めた。結果、三多摩一円を制覇してなおも現在の世田谷
中野、新宿、渋谷、目黒、蒲田、横浜含む神奈川一円の博徒とあるいは提携あるい
は影響下に置き「関東の覇王」と言うべき存在となる。
三多摩とは次を指す(昭島市・国立市・小金井市・
国分寺市・小平市・狛江市・清瀬市・立川市・田無市・調布市・東久留米市・東村山市
東大和市・府中市・保谷市・三鷹市・武蔵野市・武蔵村山市・あきる野市・青梅市
奥多摩町・羽村市・日の出町・檜原村・福生市・瑞穂町・稲城市・多摩市・八王子市
日野市・町田市)
西部においては、「南葛十万石」と呼ばれた藤江万吉の上萬一家が、墨田区、江東区を
中心に磐石の地盤を築き、城北には榎本新左エ門の土支田一家が広大な縄張りを持つ。
朱引きの内に目を転じると銀座にはパン亀こと長谷川亀三郎、住吉町に伊藤松五郎らの
博徒がいたが、なかでも高橋定吉(嘉永生)は侠名高く石定の親分と呼ばれた。
石定の系列には金子政吉(佃政一家の初代)、井上吉五郎がいたが井上は石定の没後に
茨城県古河市の生井一家の系列に入る。彼を人は古河吉と呼ぶ。
また上州屋初代の薫陶の元に「最後の侠客」梅津勘兵衛が精進を重ねて人望を集めて
いた。
第二世代というべき佃政、古河吉と並んで忘れてならないのが、川越の鶴川寛次である。
平松兼三郎が親分に逆らい新宿から出た後に新宿に戻し「小金井一家」北八幡の金看板
を背負わせたのは鶴川であり、赤坂を一力大五郎に与え現在に続く縄張り地図を描く。
これ以降、新宿を中心とした「小金井」が東京市最強の名を欲しいままにする。恵比寿
より出発した愚連隊の元祖万年東一はブル兼との世代を超えた交流を結ぶ。
明治後期からの自由資本主義と歩調を合わせる人間も出てくる。政友会の巨魁である
星亨の門下から古河吉の舎弟となった武部申策は財界世話役の郷誠之助の薦めにより
総会屋、右翼、博徒の世界における黒幕となる。世に言う「洲崎の殿様」とは彼を指
す。武部の門下からは斯界における俊英が輩出されたがなかでも沼田寅松と田島将光
をもって両壁とみなす。
小津映画にも鎌倉の遊び仲間の一人として出演した快男児 菅原通済は菅原恒覧の子
息であるため、大日本土木組合の談合部門を総括していた秋田の栗原源蔵と河合徳三
郎も呼捨てであるが、河合は全国に知られた土木事業における実力者。その三羽烏と
よばれたのが中山忠次、馬場徳助、関根賢である。関根は後年、関東における長老と
して斯界の尊敬を一身に集める。中山の乾分で寺崎忠秋はその異様な才幹により鶴見
の喧嘩で縦横の活躍をする。
2.大正初期から昭和初期まで(関東)
「国粋会」の幹事長として、頭取の梅津勘兵衛を助けたのが銀座のライオンこと篠原
縫殿之助である。彼はブル兼こと平松兼三郎がその力量を最も認めた天才的な博徒で
あり銀座のパン亀の名跡を継ぎ、ついには生井一家の総長として一時代を築くことと
なる。篠原の跡目は戦後の国粋会の会長で独眼流と言われた森田政治である。
篠原と同時代において「今大前田」と呼ばれたのが三田村秀(倉持直吉)である。彼
は芝浦を縄張りとしていたが、高木康太という博徒は芝浦で何とか男になりたい、と
思い洲崎の武部の下に行き「芝浦の野天バクチを私一代に限りなんとかテラを取らせ
てもらいたいので倉持の親分に話をして頂けますか」と頼みこんだ。
当時の武部の威勢というのは凄いものだったが、同時に何の縁もない人間でも「俺は
武部の乾分だ」と世間で語るものが絶えなかったのは無縁の人間の面倒でもよく見る
底知れない器量の持ち主として知られていたからだった。自分の系列の高木の面倒を
見るのは当たり前である、とこの巨魁は一諾した。結果、高木は住吉一家の倉持の客
分として迎えられた。
高木組の代貸である阿部重作は「幸平一家」と「住吉一家」が当時、最強を詠われた
小金井一家と喧嘩になったときトラックに乗り込み助っ人として目を見張る活躍をし
た。彼は関東大震災の前後に砂町に移住していたというがよくは知らない。
台東区では千葉からでた共和一家(きょうわいっか)が磐石の構えを見せ、墨田・江
東では「関東 関根組」という一時代を築く組織がそのエネルギーを放出し、最終的
には東日本一円を席巻する大組織への道を歩みはじめていた。
気取った言い方をすれば六郷橋より向こうでは世間の例に洩れることなく、東京人と
は違うと意気込む横浜の親分衆。藤木幸太郎、鶴岡政次郎、酒井信太郎親分らの港湾
荷役の顔役の時代がきていた。「半鐘兼」の地域ネットワークの繋がりにならったの
か、内輪でもめてもいざ外敵となれば集まる風習はこの頃すでに始まっていたという
.この時代において、柳町の侠客として知られていたのが百瀬梅太郎氏であり、前述の
博徒としては篠原縫殿之助や、同じく生井一家の鈴木栄太郎(人形町)とは親しかっ
たが、鈴木の乾分で後に関東を代表する親分の一人になる新田新作はこの「叔父」の
援助や厚意を徳としていた。
新田と同時代の親分を名前だけ出していくと、関根組の藤田軍治、姉ヶ崎の山本五郎、
松竹の東五郎、破れ傘の入村貞治、愚連隊の益戸克己、大化会の村岡賢二など錚々た
る面々がいる。
.この時代において、柳町の侠客として知られていたのが百瀬梅太郎氏であり、前述の
博徒としては篠原縫殿之助や、同じく生井一家の鈴木栄太郎(人形町)とは親しかっ
たが、鈴木の乾分で後に関東を代表する親分の一人になる新田新作はこの「叔父」の
援助や厚意を徳としていた。
新田と同時代の親分を名前だけ出していくと、関根組の藤田軍治、姉ヶ崎の山本五郎、
松竹の東五郎、破れ傘の入村貞治、愚連隊の益戸克己、大化会の村岡賢二など錚々た
る面々がいる。
尊父 百瀬梅太郎氏について博徒の沿革の説明を続ける
太平洋戦争末期、海軍主導で「武蔵挺身隊」が結成されたときには、倉持直吉ら
のよびかけに応え前出の鈴木栄太郎、碑文谷の鑓七こと田代七蔵(大田区)らと
居並ぶ親分衆の中で百瀬梅太郎氏も参加している。
敗戦。
大安組の安藤明が厚木飛行場の整備をして男を上げたのを最後として、侠骨あふ
れる土方や港湾の親方たちの多くはすでに堅気の世界に戻っていた。
鶴見の松尾嘉右衛門、横浜の笹田照一、人形町の新田新作・・・。この男たちの
共通点としては骨がらみで「バクチ好き」ということで松尾や新田は競馬の世界
でも大馬主として知られている。
ラジオたんぱ、CXの競馬番組での解説で知られる競馬評論家の故大川慶次郎師
が新田新作の秘書であったのは有名な話。
中央競馬会理事長を父にもつ有馬頼義が「貴三郎一代」すなわち兵隊やくざを書
いた時に有馬−新田ラインを知っていた好事家が新田の兄弟分である関東五郎に
「あなたがモデルですか」と聞いたというが笑って誤魔化されたらしい。純情な
男として知られる大親分の一面がみえる。
どうせコピペでもってくんだろう。どんどんもってけよ。
関根賢、阿部重作らが一線から退き、諸豪が「関東制覇」の野望に燃え合従連衡を繰り
返していた時代、その動向を注目されていたのが最盛期の小金井に匹敵する広大な領土
を「三千騎とも4千騎とも」云われる猛者達をで「共和」の名の元に号令をかける最後の
カリスマ 佐原の大親分だった。佐原の親分はその男の動向を睨んでいた。決して全国
的に有名ではない、が笑顔の下に我慢の根性が入っていたその男はいつも旅の中にいた。
いつか、関東にこの男が一時代を築く。
それは誰なの?
まあ 百瀬は確かに若い頃は強そうだったろうなあ
デカイもん 猪木と同じかそれ以上なくらい
gbiuiuv;oiuv
で百瀬本人のアウトローとしての力量は?一年前くらいの番組で、
力也を呼び捨て、お前扱いしてたけど、力也は敬語を使ってた
あ
格闘板の百瀬氏のスレの内容には驚いた。
元々の名家の出身なんですね。
いろいろな意見があるけど
百瀬氏のトークはすごく面白いし、この人には不思議な魅力があると思う。
文章にも、思わずもっと読みたくなるところがある。
age
瀬梅太郎氏を中心に考えていく。
図書館に行けばあるかもしれないが古い本で
『浅草博徒一代 伊地知栄治のはなし』佐賀純一著 筑摩書房1989年の一節
に代地の親分 百瀬梅太郎が一場面だが登場する。この本は浅草の出羽家(古く
は出羽屋)一家の山本修三の乾分だった伊地知栄治がその一代を振り返り作者に
語る形で話がすすめられる一人称小説である。
前述した人物では
>>10 の関根賢親分、
>>12 の村岡賢二親分、その他「大宮の
親父」こと大宮一家の親分で関東の土工をまとめた大宮啓次郎等 当時の顔役が
登場する。代地の親分は主人公の出羽屋入りの世話をする役どころで山本を兄弟
と呼び関東を代表する侠客の貫禄を示す。
山本は元は横浜の博徒だったが
>>10 の河合徳三郎が浅草に送り込んだ辺りか
ら見ても親分としてもって生れた器量があったのだろう。関根賢の舎弟として
絆を結んでいる。ここまで書いてきて不明な点も多いと思うので整理する。
説明が大まかなことは考慮して欲しい。
1.博徒
・新宿の小金井一家から博徒 篠原縫殿之助が輩出され生井一家の総長となる。
・名人篠原の跡目となる森田政治を百瀬博教は「心の師」と呼んでいる?
・生井一家には実力者として鈴木栄太郎(人形町)や灘竹三代目の高梁林太郎な
どの大物が日本橋を中心に揃っていた。
・人形町の鈴木栄太郎親分の乾分である新田新作親分は「明治座」「新田建設」の
社長として、大きな経済事件の調停者として表と裏の世界で人望富に上がる。
百瀬博教はこの人の「養子」になるはずだった?
・柏の中里一家出身の倉持直吉は苦難の道の末に住吉一家の総長として名門一家
を支える柱となる。兄貴分の一力の縄張りだった赤坂は住吉のシマとなりここ
に戦後「ラテンクオーター」が作られる。
・北関東は諸豪鼎立、千葉は佐原を中心にした共和一家より堀越一族の堀越常雄
親分が吉原の親分の薫陶を受けながら最後のカリスマとしての道を歩んでいた。
・右翼である「護皇会」の中山忠次、その乾分の寺崎忠秋。向島「関根組」の関根賢、
乾分の藤田軍治。浅草「出羽屋」の山本修三、その三下だった伊地知栄治、
浅草「高橋組」の高橋金次郎他 多数の親分達は「河合徳三郎」の系列。
・横浜は戦後は港湾の顔役達、所謂「ニッケルの部屋」の鶴岡政次郎が戦前からの
東海道の顔役として相模から遠州まで幅を利かせていたが「稲川時代」へと移る
・昭和26年の反共抜刀隊構想では梅津大親分の呼びかけに、倉持、篠原、鈴木、百瀬
や浅草の金井親分が発起人となる。会合の上野精養軒は武蔵挺身隊と偶然か同じ。
∧_∧ 精養軒の洋食くいてー!
(´Д`) ∧_∧
⊂ヽ y⊂ノ (´Д`;)っ
ヾ(⌒) (」つy ノ
し ヾ((リノ、
(_)J
最近のニュースを見て。
新井幸太郎が中心となり結成した同一家名の連合体である「飯島連合」の祖は戦前の
三階松一家の親分である飯島源次郎とされる。飯島は自分に厳しい男だったが他人に
対しては乾分であろうと声を荒げて叱ることのない穏やかな人格の男だったという。
この男の舎弟に山田春雄、通称「山春」という男がいた。弁が立つし頭が切れる。
戦前の政党関係にも顔が利いた凄腕の親分でこの時期の浅草の興行界は「山春」一色
に塗り替えられたとも言われる。
反面で、伝統的な的屋の親分達からはとかく白い目で見られがちだった。三階松一門
は的屋の名門でありタカモノと呼ばれる仮設興行を行う山春一派は伝統を外れている
という意識があったのかもしれない。
伝来の業種を守る事が大事であるという意識は堅気以外でも変わる事がないのだろう。
ともかく、
「山春」は兄貴である飯島源次郎が三階松の長老達から軽んじられている事、その因
が自分のような毛色の変わった若い者の面倒を見ているからだと考えると兄貴に対し
て申し訳ない気持と同時に、現状を打破をする方策を考えなければと必死であった。
業界全体での飯島一門への信望は厚い、だが三階松内部での風当たりの厳しさも相当
であったという。
強固だが一面では閉鎖的な「家名」の世界。その世界の事は内部で片をつけなければ
飯島一門が笑われる。山春の頭には三階松より飯島一門を世に立てたいとの意識が芽
ばえいたとしても不思議ではない。
これからの話については諸説あるが、
飯島源次郎、山春、三階松の長老たちがある件で山春の査問を行うなかで、山春が
「そこまで飯島一門が三階松に合わないなら、今日から飯島一家を作ります」と断言
したという。長老達も驚いたが、当人の飯島も突然の話で驚いた。
山春の発言を業界全体への反逆と見た長老達が山春追放を飯島源之助に勧告した時
にいつも温厚な飯島が「山春が飯島一家を立てるというのなら、今日から私は飯島
初代を名乗ります」と舎弟の山春を庇いそのまま山春と引き上げた。
業界への反逆と取られても仕方のない事であり、必ず追手がかかる。桝屋、寄居、
丁字屋、花又、三寸と業種や発祥の地名を取っている伝統ある家名の重みを知ってい
る稼業人の山春は自分は命を取られる覚悟はできていた。がこのとき
飯島源次郎の下へは今までの飯島の厚意、温情に報いるためにはこのときと日本全国
から地響きを立てて的屋が参集しついには三階松も飯島一家を認めざるを得なくなる。
こうして戦前の的屋として最大の一門であり初代の名前を持つという「飯島一家」が
誕生した。土地の博打うちに挨拶にいくのでも「飯島」は礼儀が正しく日本全国から
尊敬を受けたと聞く。又、浅草に「山春」ありと侠名また揚がるという伝説。
シーサイド百瀬
百瀬!おまえって前からいつもいつも自作自演してるけど恥ずかしくないのか?
大日本興行
親父だけだよ。こいつは素人のハッタリ。
こんなとこに書きこむな。
プライド前社長の自殺と関係あるってホントですか?
百瀬は何も知らない。
つうか、ただのトーシロ。
age
森田政治のまわりウロチョロしてる時に
稲川とか田岡とかと知り合いになったんだよな
そんで青思会では児玉誉士夫とも付き合いが出来たし
>>37 その前に日興とつきあってたから
小林会、青年社ともいまだに仲がいいんだよ
て、考えてみるとあいつ、すごい顔が広いな
プライド前社長は、後藤組からガジられてたのが痛かったわな
川又も危うく、太田と英から首絞められる所だったし
百瀬は相変わらず、うまくかわしてますね、顔が広いと得だね
猪木はまた英五郎組長と温泉旅行ですか、猪木がヤクザぎらいなんて噂、聞いてあきれるわ
けっきょく
プロレス、総合格闘技興行は
関西じゃ、山健、英
中部東海は、弘道、後藤
関東は、日興、小林
この図式で決まってんだろ
中部東海は、弘道会、後藤組、稲川熱海
関東は、日興、小林会、稲川六本木 でしょ
>>39 猪木がヤクザぎらいなんて噂、聞いてあきれるわ
↑確かに、、何か今出てるアントニオ猪木の闇て本やったかな?
故宅見組長とのエピソード、先代角定一家総長との記念写真やら載ってて
びっくりした
極東もやってるでしょ?
英さんも興行やってるんだね。
>>44 もちろん極東、極東櫻井、東亜、住菱稲のほかの組織も
やってるけど
>>40>>41さんのいってるとこと組まなきゃ興行はできないよ
今は興行はみんなで仲良くやるものだから
て英さんも言ってますよ
博多の興行は道仁会でやらせてもらいます
百瀬って蒼龍会にいたヤシだろ
まだ千代の富士やらの時代
若花田、貴花田時代 博多の相撲興行はほとんど道仁会でした。
俺が息子だったらイキガリまくれるくらい(親の威光で)、 偉い人なのかな?
昨日夜中に深夜番組出てたな。
なんか愚連隊っぽいね。
ひろし好きだな
age
青年思想研究会
なんだ道仁会か
イキガリ道仁会
ヘタレの巣窟道仁会
じゃあ住吉一家同人会はどうだ?
知らない
>>61 田中初代が元浜本兄弟会の浅草の雄、住吉一家同人会!
でもヘタレです。
百瀬は生井一家?
>>46 極東櫻井ってチケットの買い占めしか興行にかかわれないだろ
百瀬は生井、小林会、日興、碑文谷、山口組とかかわりが深いが
所詮カタギだよ。
金がなきゃ、相手されないのがこの世界だ。
怪物と言われるだけの「金」の使い方を知ってるって事だよ。
ヤクザ、総会屋、右翼、興行師、政治家、芸能人、有名人いろんな世界を上手く利用してる、
ある意味「金」の使い方の天才だよ。
百瀬って猪木事務所のヤツと青年社の六本木本部に来てるの、よく見かけたな。
あの派手な服着た、身体のでかい帽子かぶった男だよな。
10 :名無番長 :04/04/15 12:46
英と山健で、川又っていう企業舎弟探してたな。
なんかヘタうったのかね。
11 :名無番長 :04/04/15 13:08
ギャラ未払い(持ち逃げ?)で海外逃亡。
帰ってきたんじゃないかな。
14 :名無番長 :04/04/15 13:24
>>11 そいつ、よくやるなぁ〜
五代目カンカンだろ。
組には一応金払って、海外行ってたのかな。
そうじゃなきゃ、海に浮かんじゃうもんなぁ。
15 :名無番長 :04/04/15 13:34
川又って太田興業の守道会?早崎会?どっちの企業舎弟。
16 :名無番長 :04/04/15 15:40
>>15 太田の本部。
でもいつも太田の枝の枝の組長とつるんでて、その組長破門になっちゃって、もーターイヘン。
17 :名無番長 :04/04/15 16:09
守道会の枝じゃねえ
なんだ?その川又って
川又、百瀬、猪木、石井浣腸、谷川、と、こいつらが格闘技のプロデュースしてるんでしょ。
格板って格闘技板か?
教えてやるよ、あいつは色んなとこの裏社会に通じてて、ある意味、児玉誉士夫みたい
なのを目指してたんだよ。フィクサーってやつかな。一時期金凄いもってる頃はヤクザと
深くて、金使ってた見たいだしな。人の面倒とかよく見てたってことだよ。ヤクザや右翼
なんかに対しても。恩を売ったって言うか、そんなかんじかな。20年も前の話だぞ。
なんで儲けたかは、俺たちも知ってたよ。株?アウトローっぽくインサイダー取り引きで?
仕手取り引き?それだけじゃないだろ。ま、それはいいよ。とにかく金をばらまく様に使っ
てたな。俺のいた青思会系の政治団体にもそうだった。それがあいつの今の強味でもあるん
だよ。 実父が侠客であると言うバックボーン、ラテンクオーター時代や塀の中での人間関係、
それと金、これをつかって百瀬は怪物になったんだよ。
後藤組良知組が住吉会平塚と組んでなんか格闘技の興行やった時に、川又って聞きましたよ。
>>72 良知組は後藤の埼玉責任者だし、完璧にありーなの興行じゃン。で、やっぱ武藤敬司がらみだよね。
そんで平塚のヤシらってプロレスのチケットをまわりの人(とくに女)にあげたりする
のってなんか快感になってないか。
なぜ新日本プロレスや全日本プロレスが六本木に拠点を置いてたか、考えてみる。
>>75 なんでですか?
大日本興行、小林会がいるからですか?
稲川興業本部があるからですか?
東声会がたくさんいたからですか?
自衛隊崩れを入門させるためだったんですか?
なんでですか?教えて教えて教えて〜〜〜
赤坂ラテンクオーター
当事、小林旭、石原裕次郎、美空ひばり等の芸能人をはじめ
ホテルニュージャパン横井社長、児玉誉士夫、力道山、など
裏の顔ぶれでは、安藤昇、稲川聖城、森田政治、町井東声会会長、
もちろん住吉系の親分衆、そうそうたる顔ぶれが集うクラブでした。
西の大親分、三代目田岡組長も東京に来る時には、かならず立ち寄ったといわれます。
百瀬はここの用心棒をしていました。
>>77 ラテンクオーターじゃなくて、ニューラテンクオーターですよ。
ホテルニュージャパンの地下にあったクラブですよね。
山口組三代目は息子さんを連れてきてる事もよくありましたよ。
宅見ね、やっぱり宅見だったんでしょ。
株式総会のからみで金を掴んだんでしょ、百瀬は。
宅見親分の生前の総会屋としての力は、株式相場を左右するぐらいの力ありましたからね。
総会屋の大ボス宅見親分と仲がよかった百瀬が株で大金を手にするなんて
誰が考えてもねー、そっちの情報でとしか考えられないですよね。
てこれは当事の単なる噂です。
百瀬と猪木=ビジネスパートナー
猪木と皇民党=一緒にイラク視察
皇民党と宅見=先代同士が5分の兄弟分
こいつらみんな仲良しなんだろ
破れ傘と言う組織は本当に有ったんですね
じいちゃんが昔その話をしていて変な名前と思っていたので、うそっぽいとその当時は思っていました。
破れ傘はどこに行っちゃったのですか、それとも何処かの組織とひとつになったとか?
関東の糞は些細な事でも1000倍位膨らまして話すからのう
大げさ万倍 糞
青年思想研究会っていま落ち目だな
>>1 稲穂では碑文谷一家、横須賀一家と仲がいい奴
工藤会ともコネあるの?
あ
(^○^)
(^○^)
(^○^)
(^○^)
夜の番組で百瀬と出てる藤原って何者?
>>81 破れ傘って生井一家 佐竹入村の隠居さんの
事じゃなかったっけか?
詳しい人 あとお願いしまつ
破れ傘って下町界隈の人間ってばればれ・・・でもこの人普通に鳥越とかにいるよね?去年もいたような・・・
鳥越じゃ百瀬の半纏は有名だよな
個人的に田岡氏や児玉氏と付き合ってた、それだけでスゴイでつ
藤原鎌足じゃない事は確か。
独眼竜森田政治 生井一家蒼龍総長があっての百瀬だったんだよね
千葉市川の番長!太田が用心棒ってまじ?
どっちかっていうと住吉
100といえば百瀬さん。
百瀬って組はどこなんだよ!
(`ヘ´)あげんぞ
カタギだよ
後藤組東京盛代、住吉一家西海家。青森は旧柳川組の山口組誠友会。
>>104 みちのくは物凄いローカルポイントばっかりだから
行く体育館の地回りには一応直接挨拶しに行かないとな
【日本初の暴力団】
明治初頭、農業国家の日本は松方デフレの影響で農村の階層分化が進むと豪農・地主層
は自由民権よりも政治的な野心を優先させる。明治16年頃の激化事件を経て伊藤博文
と星亨は利益誘導と地方政界への猟官運動を満たすことで彼らを懐柔するのに成功。
これが栄光の三多摩 自由民権運動の壮士たちのなれの果て、日本初の暴力団 三多摩
壮士団、「多摩の犬」の誕生である。村野常右衛門、森久保作蔵、石阪親子・・。北村
透谷(門太郎)は石阪と義理の親子だが現実に絶望し縊死する。
勿論、頭山満や中野喜三郎(皇居造営)の系譜も無視できないが都合上、話を簡略して
いく。
【暴力団と博徒と院外団】
森久保作蔵(星亨の片腕)は大正デモクラシーの時代では指弾の的となる。強面の壮士
より、近代的な暴力団が必要になり郷誠之助(三井)は洲崎の博徒である武部申策にこ
れを任せるのは前述した通り。一方、村野常右衛門は政友会の院外団へ人材をスカウト
する一方で、横浜に居を据え、関東のアンダーグラウンド勢力と政治を繋いで多大な功
績を残す。村野の遺産は海原清兵衛を最後のボスとする院外団として戦後まで残る。
(院外団とは政党の前衛組織であり、一言で言えばドブ浚い)。日比谷焼き討ち事件で暴
れた大野伴睦はここから自民党の副総裁まで上りつめる。
【暗黒総理 田中義一】
政党と暴力団の流れは原敬の没後、長州閥の田中義一を迎えたことで流れは頂点に達す
る。田中は日本中の顔役という顔役を殆ど膝下におき普通選挙の二回目には自分の勢力
圏である山口県から暴力団「籠虎組」の組長を代議士に立候補させる。(最高得票により
当選)。益戸克巳の兄貴分で不良の元祖とされる篠一郎は田中の親衛組織を率いて将来
を嘱望されたが夭折す。
【益戸克巳と万年東一】
益戸は浅草の暴力団の歴史を背負って生まれてきたような、道統を継ぐべき男だが所謂
「やくざ」とはならない。彼が継ぐべき地位は形を変えて周囲の兄弟分たちが分担して
いく。関八州に知られた博打うちの金看板、好漢 村山洋二をして大親分と呼ばしめた
男達である。
万年の好敵手と目された万年東一は独立派だが、この為なのか遅すぎる「時代遅れのテ
ロ」安部磯雄への襲撃事件(昭和13年)を担ぐ事になる。
【ライオンの場合】
万年より以前にテロの片棒を担いだ(影の日本共和国大統領「大山郁夫」への襲撃事件
を起こした)ライオン野口は優秀なボクシングの指導者であり、かつ、豪傑の風貌をも
つ男だった。熱血の人だった野口だが、後年、過激な門下生達が起こしたトラブルがこ
じれ周囲が泥が被りそうになった時、一人で電話をかけて血を見る事なく一瞬で終わら
せる神業を見せたという。
【霧の底への電話】
「誰に」電話をしたのか?という事だけは決して話さなかったので、もはや分からない
が @ヤクザでも、右翼でもないという事は衆目の一致する点である。まず、右翼陣営に
は貸しはあっても借りはなかった。戦後であれば児玉とか笹川の大物であれ頭を下げる
必要は欠片もない。嘉納健治の直参で岩田総帥の後輩の筋目もあり実績もある。海内屈
指の実力者である事は云うまでない。
想像力を広げれば大政翼賛を主導した内務省人脈<戦後も生き続ける官僚群とその支援
者たち>が相手だったのではと膨らむが、何故、堅気になった後も彼らと接触を持って
いたのか?
結論として体を賭けた事により「日本の霧の底」に足を踏み込み、何らかの信用を勝ち
得たのでは?という事になる。
野口の名誉のために言えば、彼は嘉納に心酔していたためにやった事で「貸し借り」の
為にやったのではない。
博奕打ちも的屋も愚連隊も「国家」の看板を背負わなければ息もできなかった時代に、
己の生き方を通して、かつ鉄雨のような嵐から仲間を守った万年の生き方はダンディズ
ムに満ちている。
【男で生きたい、男で死にたい】
一方、ボクシングのリングの上に血を流し続けた益戸克巳は東京の赤土の上の全てが燃
え尽き廃墟になった「その日」、焼け残ったコーナーポストにロープを張り門下生と屋
根のないジムを再開する。情熱の赴くままに「荒ぶる魂だけで眼前に屹立する山に挑み」
拳と魂を燃やし続ける日々を彼は過ごしていく。
後年、益戸について小説を書いている万年東一の胸中を去来したものが何だったのか。
どんな大物であれ、権力であれ頑然として他者の干渉を許さない。一面では暴力により
体と心に傷を負うだけの人生だが、同時に、生きるという事から昇華し男としてこうあ
りたい人生にまで蒸留された「益戸克巳」に対して自分だけが分かる男としての賛辞を
送りたかったのだろうか。
【巨人と詩人】
世間から見て現世の勝者となるのは万年だろう。彼はビジョンを持ち、それを相手に伝
える言葉を持つ。彼が消えてからも人のくちに膾炙し残る言葉だ。「任侠とは平気で損
が・・」と。
反面、益戸の生き方をどう表したらいいだろう。生きる殆どの人間は残すべき言葉を持た
ない。これも真理だ。
だから彼に触れた者が消えれば、彼の名前も消えていくのが宿命なのだろう。
「あの日」青空の下に復活した日東ジムは今も現存する。それだけが「詩」だ。
戦後、万年東一の系統から花形敬という男が登場し、益戸の系統を高橋輝男が継承するの
をみると歴史の面白さに興味はつきない。
115 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 12:33
百瀬氏の本に登場する「フーテンの博」というのは,インディアン初代の
高橋博のことで下町の不良の総帥で益戸とは切っても切れない仲。大組織
の幹部の多くも「インディアン」の流れを汲んでいる。
116 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 16:59
小林会の村田さんと関係あるん?
>>116 最近の話はよく知らないけど
益戸克巳−浦上信之−高橋輝男−小林楠男(楠扶)−直井二郎−村田氏
という系譜になるらしい。
インディアン?懐かしいねぇ。
初代の博氏は早くに亡くなり、二代目の実兄はいつも傘に「インディアン二代目」と彫り込んだものをもっていたね。
確か、初代の実子が住吉会の小岩の石川睦にいて(高橋正博氏)晩年は、小岩で面倒見てもらっていたと思う。
贅沢も何も無い時代の仁は、一味違うよね。。。。。
極めてヤクザ色が強い堅気
百瀬さん最強
百瀬さん、あんた蒼龍会で何勉強して来たの?
百瀬喧嘩強かったの?
百瀬がなんぼのもんじゃ!
極道にもなれんクスボリや!
あげ