○●○ 四 代 目 工 藤 會 第3章 ○●○

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23名無番長
常任相談役土谷組
【石井組と大長組の死闘】関門の殺し屋と恐れられた門司の愚連隊大長健一は、
戦後、大長組を結成。石井組長と兄弟分となった。
ところが、昭和30年10月、中津市で大長組員が石井組員を殺害、同年12月8日
には石井組幹部宮脇與一が大長組幹部をけん銃で狙撃。
さらに、大長組幹部土谷誠、土谷豊、 稲葉実 らが大長組を離脱して石井組に走り、
土谷豊は土谷組を結成、稲葉らは石井組幹部になったため、石井 大長両組の間は
険悪となった。
昭和31年9月11日、石井組系中津金本組長らは、中津で大長組員をけん銃で狙撃し、
重傷を負わせた。激怒した大長組長は、同年11月23日、配下5人と、石井組本拠「新都」
を襲撃、石井組幹部を日本刀で斬って重傷を負わせた。これに対し石井組員は、昭和33年12月8日、
日豊線上り 急行高千穂号 内で大長組幹部を刺殺。一方、門司でも石井組系土谷組と大長組が対立、
昭和34年1月27日、土谷組員7人が大長組長の入院先の労災病院を襲って大長組員14人と日本刀で
斬(き)り合い、重傷者3人を出した。その後、再び土谷組員は大長組を襲い、大長組員2人に重傷
を負わせた。両組の死闘が続いていた昭和45年9月19日夜、門司で土谷組幹部土谷誠は、大長健一組長
を刺殺、大長組は消滅した。