『戦後日本の政財界をダメにした四人の首領』青谷和久 によると
笹川は思想的なジプシーだ。戦前に国家的な右翼団体・政党の国粋大衆党でスタートした、
その思想的軌跡は右に左に大きく揺れた。CIAのバックといわれる反共親米運動で笹川
児玉はその指導者として、双頭の巨頭だった。三十四年の右翼団体が結集した「全国愛国
者団体会議」で、二人とも顧問に就いた。しかし、このあと二人はタモトを分かつことに
なる。間もなく韓国からはいってきた、文鮮明が教祖の「世界基督統一神霊協会」が、
まず笹川の思想、姿勢を変えた。CIAの影響が強いこの協会は、「原理運動」という
布教方式ではいってきた。その拠点が、岸邸だったこともあって、三十八年に笹川も原理
運動の顧問に就任するや、反共の姿勢をさらに濃くした。
そして四十一年、モーターボート競走会の厚生施設での第一回アジア反共連盟結成準備
会で、原理運動は「国際勝共連合」と改め、笹川はその会長に就いた。名実ともに反共の
看板をかかげ、反共の闘士に自ら就いたのである。・・つづく
>58のつづき
熱するのが早ければ、冷めるのも早かった。それからわずか三年後の四十七年に、反共との
絶縁声明を出した。「共産主義はコレラかペストのようなもの。これを打倒し絶滅しなければ
ならない。反共に命を捨てる」といっていた、その舌が乾かないうちに反共の看板を捨てたの
である。同時にこれまで支援していた、蒋介石の台湾もバッサリ切って捨てたのである。
日中の復交に政治生命をかける角栄をにがにがしく感じていた、笹川にとって、ニクソンの
日本頭越しの訪中は、大きなショックだった。もはや"反共の時代"は過ぎた、と笹川は敏感に
感じとった。機を見るに敏なのである。
この反共放棄宣言によって"思想家・笹川"は消えた。代わっての登場は"虚業家・笹川"だ。
・・・そして大宇宙博へ・・。ここに思想を捨てた笹川の誤算があった。
競艇は巣鴨で思いついたと、とぼけたこと言っているが、アイデアを出したのは
福島世根という女史で競艇法の制定と実現を政治家に働きかけていた。
競輪は二十三年四月に九州・小倉競輪場でスタートし、女子選手も走り人気を呼ぶ。
まず大野伴睦がのり前田郁・岡田忠彦・早川芳太郎などの東京グループが動き出した。
笹川は福島らに会ってアイデアを激賞し協力を申し出る。諾否を聞かないうちに工作を
展開し岸信介に働きかけ谷次一夫を中央運営委員長に据える。国会工作は福島女史らは
別行動を取り笹川一派にアイデア盗用の疑念を抱き二本立て工作になった。
この法案は難産の末に施行されるが、施行団体は一団体となっているのに、現実には
「東京都モーターボート競漕会」と「全国モーターボート競走会」の二つのグループと
なってしまった。全国競争会の会長にはダミーで王子製紙社長・足立正を据える。
早速、長崎県大村市で大会を開き興行的には速いダッシュだった。
東京グループは政治工作に資金を使い三年も遅れてしまった。西武資本などの協力で
開催に扱ぎ付けるも関東のファンは競馬と競輪に熱中し競艇には見向きもしなかった。
東京グループは、わずか一年余で手を上げてしまう。笹川は待っていたように東京
グループの経営に乗り出し自ら会長に納まる。景気が上向きであり時代が味方する。
全国制覇の三十年の売り上げは百七十億円となり笹川は得意の絶頂にあった。
だが政財界、国民、マスコミは興味も関心も示さなかった。政界を震撼させた疑獄
保全経済会事件で世間はわきにわいていた。そして再浮上するのが児玉であった。
こんどは笹川、児玉の社会的主役とわき役の位置が、ところをかえた。
全て時代が笹川に味方する。・・・ちなみに競艇は運輸省の管轄。