1 :
RUPO ◆bEsTwxCc :
どこにでもある典型的な暴力団組織の揺り籠から墓場まで、その過程の興亡
を鑑み、"なにか"を考えましょう。
一応、連載小説形式でいきます。人名・地名の一部はイニシャル等です。
序章
3代目山口組当時からの直系組織・井志組。
同組傘下に倉本組という組織が大阪府門真市にあった。
倉本組長は、右翼団体・政治結社新日本市志誠会を設立した。
志誠の志は井志組長の姓から一文字を採ったものだ。
また、大東市には元酒梅組のN本氏が東大阪本部を設立した。
同会は活発な運動により、関西のみならず、全国的に名前を広げた。
また、公安警察の右翼担当からも、調査対象団体にされていた。
公安調査局も同様であった。
右翼団体は多数存在するが、連合体や同盟体で調査対象になっているのが殆どで、
単独の組織が調査対象になるのは小数、いや稀である。
実際に、組員がそのまま会員であることが多い、暴力団右翼(別の言い方では任侠右翼)と違い、
志誠会は暴力団よりも会員の占める率が高かった。
幹部も会長は倉本氏をはじめ暴力団だが、それでも右翼活動のみの会員が幹部に多数登用されていた。
元自衛官や現役の高校生も多数会員になっていた。
田岡組長死去。山口組は一和会と分裂。井志組は後者についた。
若中とは言え、古参組長であった同氏が一和会についたことは大きかった。
実際に相談役的地位に就いたが、井志組は資金力・戦闘力も他組織と比較して、豊富ではない。
あくまでも、調整力を買われていた。
また、初代山健組々長が山口若頭に就いた後、寄合で不平を言う古参組長を大勢の前で怒号、罵った話は有名だが、
その相手が井志組長であることは以外に知られていない。
この抗争の間、新日本志誠会は運動(街頭宣伝等)でも、抗争相手の山口組を意識せざる得なく、
山口組系の右翼団体も集まる集団運動には参加しなかった。
表向きは趣旨の相違等であったが、やはり幹部が襲撃をおそれていたのであろう。
そこで右翼活動のみの会員が多数幹部となり、運動は専ら彼等に任されていた。
暴力団の方はそれどころではなかったのだ。
大東市の東大阪本部が門真市浜から志誠会本部機能を移したのもこの頃だ。
抗争は一和会が敗北・解散した。
井志組長も引退、組織は解散となる。倉本組も組長は指名手配され、逃亡生活を余儀なくされた。
暴力団としての活動が困難になり、倉本組は実質解散状態になり、他の山口組系組織にも行けない多くは、
新日本志誠会の会員として、右翼活動のみすることになる。
地元の黒誠会系組織も、右翼のみの活動なら了承すると行っていた。
ちなみにこの黒誠会系組織は大東市にある志誠会2階の窓ガラスへ発砲を抗争中している。
中で寝ていたT氏が投石等の悪戯と勘違いして窓を開けると、階下で銃口を向けた人間がいて驚き、
失禁した。
とにかく、新日本志誠会は地元大東市で、右翼活動しか出来なかったのだ。
その為、多くの者は他の山口組系組織に流れた。
2 :
RUPO ◆bEsTwxCc :02/04/18 16:15
#訂正。1のN本氏はN村氏の間違い。
元酒梅組のN村氏が東大阪本部長から、逃亡中の倉本氏から託される形で会長に就任した。
ここで、倉本氏子飼いとN村氏が連れてきた元酒梅組の連中との内部不協和がおきた。
が、N村氏は若い衆を増やしたので、当初は倉本組長の若い衆との合議で運営されていた組織も、自然に
彼の手中に入る。
N村氏は、実質暴力団に変りない志誠会に代紋が欲しかった。
右翼活動は順調とは言え、やはり菊ではなく、菱の代紋が欲しかったのだ。
逃亡中の倉本氏も自分の置いてきた組織が気にかかっていた。
山口系に属する親しい者に電話や奔走を頼み、その成果が実り、山健組舎弟頭であった中野太郎氏の盃をN村氏が貰う。
だが、N村氏は早く暴力団社会に復帰、それも中野太郎氏の若い衆になる為に無理をした。
構成員の数字は実際の若い衆だけでなく、右翼のみの会員や、その親類、出入り業者の数まで申告した。
実質的には19倍も誇張していた。
これは警察関係者へも同じであった。自己顕示欲が強い人は珍しくない。
だが、限度を超えると最終的に苦しむのは自分である。
暫くして、中野太郎氏率いる中野会は山口組直参になる。
組長秘書を経て、若頭になるのに時間はかからなかった。
バブルの頃で、日本一の赤字都市と言われた大東市でも、そこそこの経済活動、つまりシノギができた。
N村氏は中野会という背景を存分に活し、資金力を蓄えてゆく。
ふ〜んだ
続きをお願いします。
だふ〜ん
>1さん、早く続きが読みたいです。大東市とは、縁のないもんですが、興味湧いて来ました。
7 :
RUPO ◆bEsTwxCc :02/04/22 18:16
中野会の威光を背景に、大東市のみならず、京阪神で跋扈する志誠会。
いい連合等からの移籍者も20人程度とは言え、増えた。
揉め事があっても、おおよそ他の組事務所が謝罪することが多かった(今となっては否定する人も多いが、やはり事実である)。
飲み屋で喧嘩になり、志誠会の幹部の脚を撃ったK組系幹部は破門され、その直属の組が2000万払ったということもある。
志誠会はバブルで多用なシノギをしていたが、それも一部のことであり、殆どが飲み屋を経営していた。
自然、その関係のトラブルは多かった。
いい連合系の組織とのトラブルも飲み屋が端緒となった。
結果、相手は組長が手打ち後に病死、解散する。その際にも、10人程が志誠会に流れた。
彼等は志誠会に加入し、今までの憂さを晴らすかのように、中野会、中野会と言ってあ揉め事を起す。
が、当時はそれでもやっていけるだけの威光が中野会にあった。
また、大東市役所の管理職がN村氏の企業舎弟になり、退職し、フロント企業を設立したこともあった。
全国的に中野会が進出している間、志誠会も抗争に参加する。
だが、運が強いのか、潜伏し、射殺の好機を伺っている間に手打ち等があり、ことなきを得ていた。
志誠会の鉄砲玉要員が舎弟頭のIと、N村氏子飼いのUだった。
Iは元いい連合であった。
つまり、数は増えても、志誠会には鉄砲玉になれる人間がいなかったのである。
本部の指示で動かざる得ない時(人員等、大幅に水増ししていたので当然求められるであろう)、この二人をいつも動かしていた。
渡辺氏から中野氏、中野氏から山下氏、山下氏からN村氏に回ってきた、ある利権を巡るトラブル処理の際も、先の二人は名古屋に潜伏していた。
結果、直前で渡辺氏と相手の話が付き、二人は実行しなくて済む。
余談だがこのUを動かす時、N村氏は「出てきたら家を一軒やる」と言っている。
中間で搾取する等、せこいが事実である。
とにかく、実行には運良く至らなかったものの、志誠会が“動いた”のは事実であり、中野氏の信任も厚くなる。
N村氏は筆頭若頭補佐になった。また、
中野会の中には、特に子飼いでは、立場の割りに比較的お金のない者も多い。
そういう者にN村氏は気前良くお金を貸していた。
そして、スキンヘッドのT氏を中野氏宅の部屋住みに出したところ、同氏が寵愛し、N村氏はT氏に「会長へは志誠会のことを吹聴(誇張)するように」と言っていた。
それにT氏は忠実であった。
中野氏も行く行くはN村氏を総本部の直参に育てあげようと思っており、寵愛するようになる。
ポポだかペポだか おまえうざいよ
どっか1つの板でやれ!!!
アウ版はお前の発表会か?
以後、他の板にレスすんな!
RUPOさん読み応えありますね!!!
>>8
てめえのほうが邪魔!!
バカが釣れた・・・・・・・・
あげ