【ジンセイ】遺書の練習【シュウリョウ】

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1スペースNo.な-74:2007/11/27(火) 20:00:33
後先考えずにここまで来てしまった
もうダメかもしれない

人生を振り返って見よう、何か見落としがなかったのか
それとも才能がなかったのか

さあ練習だ、遺書の練習だ
2スペースNo.な-74:2007/11/27(火) 20:02:35
終えるためでなく、生きるために我が道を振り返るスレです
こんなスレタイで悪いけど
3スペースNo.な-74:2007/11/27(火) 20:05:19
死ぬ前に絵の一枚位晒して行ってよ、昔から居るけどこの板って全然実体が見えないから
4スペースNo.な-74:2007/11/27(火) 20:08:24
>>2
よし、じゃあ「死にたくなる位限界」な状態にある作品とやらを晒してみようか。
まずはそこから、じゃないと慰めもアドバイスもないだろう。
晒さないんだったら言葉に酔って何もしないヘタレ厨房認定な。
5スペースNo.な-74:2007/11/27(火) 20:10:35
君等の遺書を採点してやる
6スペースNo.な-74:2007/11/27(火) 20:52:08
疲れた
7スペースNo.な-74:2007/11/28(水) 02:58:15
パルプンテ
8スペースNo.な-74:2007/11/28(水) 03:06:03
生きる価値もないお前等には
死ぬ価値すらもない
9スペースNo.な-74:2007/11/28(水) 06:53:45
もしも、あらゆる願いを叶えられる力を手に入れたとしたら・・・
今日は社長だったと思ったら、次の日にはホームレスになっていたりするのか?
今日男だったら、明日には女になっていたりするのだろうか?
「変わりたい」と思うのは、そっちの方が、より幸せを感じられるような気がするからだ
より幸せを感じたいから、そう願うのだ
では、外の状況がどうであろうと、いつも幸せを感じていられるように
自分を変えることができるなら・・・
それはあらゆる願いを叶えられる力と同等の能力を手に入れた事と同じではないだろうか?
(幸せを手に入れるために、外を変えるか内を変えるかの違い)
そもそも苦痛を感じるのは肉体があるからだ
ではなぜ、快楽よりも苦痛を感じることの方が多い肉体を我々は持たされているのか?
生きていることそのものがなんらかの義務と考えた方が自然なのではないだろうか?
(肉体を持たない魂だけの存在にその義務は無い)
我々は、この宇宙を創造した、神(?)によって招待された観客なのではないか?
もしそういうふうに仮定するなら
絵を描くことによってより深くこの神の作品を理解することに努めるのは
けっこう正当なこの世での楽しみ方なのではないだろうか
10スペースNo.な-74
何だかんだ言ってレスしてる奴ら、いいヤツらだなおーまーえーらー。