フィリピン中級者、上級者専用スレッド

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411名無しさん@お腹いっぱい。
この町と日本人の関りは非常に深いものがあり、その興亡の歴史は涙なしには語れない。
今でこそバギオに住む日本人は数十人しかいないが、最盛期には目抜き通りの商店は数軒を除き全て日本人が経営していたらしい。いまは逆に日本人経営の商店は1軒しかない。
アメリカはマニラの熱さに耐え兼ね避暑地をバギオの地に求め開発に取り掛かった。しかし道路建設で難渋したアメリカは日本人の勤勉さに着目し、日本からの移民にその建設を託した。

道路の名前は建設責任者の名前を取ってケノン道路と呼ばれているが現地では日本人が造った道路と認識されているとのこと。
この建設に従事した日本人の一部が現地に残ってフィリピン人と結婚し勤勉さを発揮して事業に成功した人も多く次第に日本人の地位が向上し第二次大戦前が繁栄のピークであった。

この我が世の春は日本軍のフィリピン侵攻と敗北により暗転する。侵攻した日本軍の残虐行為・敗退に際して村々を焼き払ったことへの怨念は凄まじく、日本人及びその子孫は現地人からの襲撃に晒された。
彼等は山奥に逃げ込んで常に生命の危険に怯えながら飲まず食わずの生活を強いられた。その悲惨な生活は戦後も続き1972年シスター海野が命を張っての救出活動を始めるまで続いた。
シスター海野は1973年に北ルソン比日友交協会を設立、1974年奨学金制度を始めるなど日系人の地位向上に尽力した。
一方ではフィリピン人を貧困から救うため1983年に農業協同組合を創設するなどフィリピン人の生活向上にも多大の尽力をし、バギオ市のあるベンゲット州から名誉州民の称号を贈られるまでになった。
1989年シスター海野が死去した後、その活動はカルロス寺岡・寺岡マリエの兄妹、尾辻ヨシの各氏に引き継がれ今日に至っている。

寺岡兄妹や尾辻さんの辿られた悲惨な過去と日系人発展に尽くされている現在の姿には頭が下がるものがあり、比日両国民から尊敬を集めているのも当然のことであろう。