>>136 >俺はオーチディーホテルに住み
あっ、「オーチディーホテル」と言うのが正確な発音だったんですね。
たしか、オネーチャン達も「オーチディー」と発音していました。
今は、なくなってしまったホテルですが、僕達は当時、「オキデー」とか「オキ」と呼んでました。
バイタクに「ディ(行く)、オキデー」(余談ですが、プノンペンでバイタクに乗るのに、
キッチリとしたカンボジア語が話せれば問題ないのですが、僕みたいに、あやふやなのに
無理して「トイ、ムォン、ディ、〜」みたいな長い文章を言うと発音で長期在住者ではないな、
こいつはモグリだ!とバレてしまいボラれることがあります。そこで、行き先と金額に加え
発音しやすいカンボジア語を1言くらい付け加えて、バイタクにこの客がどの程度カンボジア語が
話せるのかわからないけど、まったくのモグリではないなくらいに思わせておくのが丁度いいと
考えていました。金額交渉はガンバッテ数字を覚えて100リエル単位で値切ると効果があります。
僕は、よくロイ(百)とポアン(千)の単位を間違えて言って、後でエライめにあったことが何度か
ありました。ソリア・ホテルからキャピレスにバイタクに乗って来て、バイタクが指を5本だして
「500リエル(15円)」と言っているのに5ドル(600円)も払ってたキトクな人もいました。)
余談が長くなってしまって、、何の話を?、、、あっ、そうそう、バイタクに「オキデーに行って!」と
言うと、たまにホリデー・ホテルとかに連れて行かれることがありました。
おっちゃん!僕がホリデー・ホテルのような高級なホテルに泊まっているようにどうすれば見えるのか?
と思いましたが、僕の「オキデー」という発音は現地人にはホリデーと聞こえてしまうんだなと思いました。
僕がプノンペンに行き始めた頃のオキデーは、すでに長期滞在者達の溜まり場と化していました。
今から考えてみると、オキデーがあったから今の僕がある(というか正確には、こうなってしまった)。
と言っても過言ではないくらい、当時のオキデーには魔物たちが住んでいました。ペコちゃんとかもいたし、、?
1階にカフェがあって、よくオネーチャン達がカフェで、たむろっていました。
その娼婦を目当てにわざわざオキデーに泊まっていた人も(というか僕ですが、、)いました。
オキデーに泊まっていたメリットも、懐かしい思い出も、山のようにあって、それだけで本でも1冊
書けてしまうくらい。(「今は無いオキデー物語」みたいな、、、誰も買わないと思いますが。)
僕にとってオキデーに泊まる最大のメリットは「魔物の教え」を学べるということもあったのですが、
当初のメリットとして青空市場が近かったみたいなことがあったのかもしれません。
と言っても、青空市場を実際に経験できたのは1度だけで、次に訪カンした時には警察の手入れがあり、
青空市場はオキデー裏の闇夜と共に消え去っていました。
オキデーは夜になるとテレビで裏ビデオが流れていた、というのも僕としてはポイントが高かった。
受け付けのお兄ちゃんが毎晩、手作業で裏ビデオをかけていてくれていました。
一度、せっかくオネーチャンをお持ち帰りした日に、裏ビデオがやってないことがあって、
翌日、ペコちゃんに文句を言いに行くと「ごめんね、フロントのお兄ちゃんが理由はわからないけど
夜中に突然、死んだの!(あまり予約して死ぬという人もいないかもしれないけど)」と言った。
よく見ると、その日ペコちゃんは黒い喪服を着ていました。
ペコちゃんは、中国語とベトナム語とフランス語とカンボジア語と英語を自在に操る才女でしたが、
なぜか、オキデー・ホテルの一番の客層の言語である日本語はあまり得意ではないようでした。
僕がプノンペンに住むようになったある日、オキデーはトモビッチに吸収合併されました。
以前に、僕はHさんから「次回もプノンペンに来た時に使いたいから」とセーラー服をあずかって
いました。その頃、トモビッチに泊まっていたSさんがそのセーラー服を貸して欲しいと言いました。
僕は「セーラー服は借り物なので、」と断ったのですがSさんが「必ず返すから!1週間だけ」との
約束で貸したのでした。1週間を待たずして、そのセーラー服はある事情でカンボジアの警察に没収
されることとなり、2度と帰ってくることはありませんでした。Hさん、ごめんなさい、m(_ _)m
あの服はベトナム人のオネーチャン達にも「水兵さんの服」として人気が高かったのですが、、。
>>137>オーチディーを拠点にレイクサイドに別荘代わりの1部屋借りていた。
>ガンジャをキメる時は、ロケーションも大事であった。
>帰りがてら、70番に寄って遊び相手をGETし、拠点に戻った。
なるほど、いいパターンですね。
僕はレイクサイドに泊まったことはないのですが、いろんな事情で通っていた時期がありました。
ガンジャの師匠に、ある人を紹介してもらったお陰で、その後はたまに市場調査に行くくらいに
なってしまったのですが、、、。
師匠に紹介してもらったその人はタケといい、ケミカルの畑で育てたんじゃあないかというくらい、
当時ものすごいブツを持っているカンボジア人でした。
僕達は、それを「タケネタ」と呼び「舶来の種ノーザンライトにカンボジア農民の知恵が詰まった
芸術品」と言いました。
「タケネタ」最初に体験したのは、こじんまりとした某食堂で、師匠とMさん(もちろん仮名です)
と僕で夕食を食べている時でした。師匠ははおもむろに火をつけ「まあ、一服どうぞ」と言いました。
僕は一瞬、身の危険を感じ躊躇したのですが、Mさんが「師匠のボンは断れないですよね」と言い、
師匠が「カンボジアのネタですから、たいしたことはないですよ」と言ったので、僕もそれはそうだ
なと思い、その1本を3人でまわしました。味も臭いも普段のガンジャと同じでした。
異変を感じ始めたのはトイレに立った時でした、やっとの思いで食堂のトイレに着いた僕は
トイレの壁にもたれてハアハアと息をしていました。
師匠は「もう一服どうですか?」と言いましたが、僕は「すみません、もうカンベンして下さい」と、
なぜかテーブルに手を着いて頭を下げ、あやまりました。
師匠とMさんは勝ち誇ったように、ニコやかに笑って、どこかに行ってしまいました。
マジでヤバイんだから僕を一人にしないで、、、と思ったのですが、後の祭りでした。
食堂には偶然、友達のBさん(仮名)がご飯を食べていました。
僕はBさんに「ちょっと、一杯やってきませんか?」と屋台の飲み屋に誘いました。
その頃、僕の家は食堂から30分もかかる所にあったので、この状態で帰るのはあまりにも危険
なので、時間をおいてから家に帰ろうと考えたからです。
やっとの思いで食堂の会計を済まし、Bさんと僕は飲み屋の屋台に向かいました。
屋台に向かって歩いている途中も、僕の精神は潜在意識の海の中へどんどん潜って入っていきました。
屋台につくと僕は狂ったように屋台にあるものを食べ出したそうです(僕はその時の記憶がないので
後日、Bさんから聞いた話です)。
薄れゆく理性のゆらぎの中で、意識のある時間と無意識の時間が交互にやってきました。
屋台に着いて、どれくらいの時間が過ぎたのかさえ、わかりませんでした。
その時、それが5分間と言われればそうだと思えたし、3時間と言われればそう思えました。
無意識の時間には、僕が今まで体験した出来事や出会ってきた人達と戯れていたように感じました。
薄れゆく意識の中で、僕はその時あることを悩んでいました。
それは僕の精神が、このまま潜っていくと、意識が飛んでしまうことは目に見えている、多少でも
意識のある間にBさんに告白した方がいいかもしれないけれど、それはBさんに迷惑を掛けてしまう。
多少の意識が戻った瞬間に僕はBさんに「すみません僕は今、自力で家に帰ることができません。」
と告白しました。
Bさんは「それは今の井上さんの状態を見てたらわかりますよ。今どうしたいですか?帰るのなら
家に送っていきますよ。それとも、どこかに遊びにでも行きますか?」と言いました。
強烈な食欲がなんとか満たされた後、今度は今だかつてない程の異常な性欲が僕を襲ってました。
その時、僕はBさんに一言だけ「やりたいです!」と言いました。
僕の頭と体は、すでに理性の歯止めは消え去っていました。
その時点であれば例えば、目の前に70番街の奥の白化粧した化け物女がいたとしても、
何の抵抗もなく押し倒していたと思います。
その後ことは、ほとんどコマ切れの記憶しかないのですが、
Bさんと僕は、1台のバイタクに乗り、夜の街を走っていました。
Bさんは、僕がバイクから落ちないようにしっかりと後から支えていてくれました。
プノンペンの夜の街は、いや!見なれたはずの汚いプノンペンの夜の街はそこにはありませんでした
一瞬、僕は何所にいるのだろうと思いました。バイクが走るその街は別世界のように美しかった。
次に記憶があるのはBさんと僕はマテーニ・パブというディスコの横のテーブルに座っていました。
知らないブサイクなカンボジア人のオネーチャンが向こうの方から近づいて来ました。
ブサイクなカンボジア人のオネーチャンが近づいて来るのを、ぼんやりとながめていると、
突然、そのオネーチャンの顔が超美人に変身しました。
僕はなにか変だと思いながら、そのオネーチャンの顔をじっと見つめていました。
後でその時にマテーニにいた人に聞いた話では、僕はそのブサイクなカンボジア人のオネーチャンを
捕まえて、その時マテーニに来ていた日本人の人達全員に、自分が今連れているオネーチャンが
ブサイクなのか美人なのかどうかを聞いてまわっていたそうです。僕はまったく覚えていませんが、、、。
朝、起きると僕は知らないゲストハウスにいました。
昨夜、見た夢を思い出しました。マグロ化した僕の上に、裸の女神が舞っていました。
女神を見つめていると、女神は後を向いてしまいました。
ひざを立てウンコ座りをした女神とつながった部分は、白く輝いていました。
僕は、こんなに綺麗なオネーチャンとやれてなんて幸せな男なんだろう?と夢の中で考えていました。
窓の外はすでに明るく朝の騒音が響いていました。
鏡の前に置かれた、クシには長い髪の毛が纏わり付いていました。
まだ、僕の大脳新皮質はその機能を充分には回復していませんでしたが。
床に散らばったテッシュとコンドームをかたずけ部屋を出てました。
階段を下りるとゲストハウスのフロントがありました。
サイフを出し宿泊代を払おうとすると「ノー!、ユアー・フレンド・ペイ・マネー」と言われました。
よく考えたら、昨日食堂を出た時から、僕のサイフの中身に金額の変化はありませんでした。
実は、僕が本当にものすごい「タケネタ」を実際に堪能できたのは、その時の1度だけでした。
そして再び、あれほどハッキリとした幻覚にお目にかかれることは二度とありませんでした。
それは、01年末の場外ホームランを最後に「タケネタ」の神通力が、なぜか徐々に衰えていって
しまったからでした。うまくいって2塁打が「タケネタ」の限界になっていました。
ある日、師匠がボソリと言いました「俺はね、親には死なれてもいいけど、タケにだけは死んで
もらいたくないんだよ!」と。
その頃、タケはすでにいつもヘロで鼻を赤くして、常に夢と現実の間をさまよっている状態でした。
その頃、誰が見てもタケの先はそう長くないという感じだったのです。
僕は今でもあの日のプノンペンに、そして何より素敵な人達に、出会えたことに感謝しています。