関ヶ原の戦いについて
1投稿者: 投稿日:2009年05月03日(日) 22時21分31秒
1:関ヶ原の戦いは家康の意のままに進んだような戦いではない。

2:家康とは大きく地位的に格差のあった三成が家康と互角の戦いを繰り広げた事は、
 彼が家康よりもすぐれていることを証明している。
 もし家康と三成の立場が逆転していたならば、
 家康はひたすら三成に平身低頭していたに違いない。
 そのことは家康の信長、秀吉への態度を見ればわかる。

3:上杉討伐の為に、家康が出兵したあと三成が兵を上げたことは、
 「家康の策に三成が乗った」とされるが、このとき以外にいつ三成は行動を起こせたというのか。

4:小山評定では家康は理由は分からないが落ち込んでいた。
 常識的に見ればこの時点では家康は不利な状況だった。
 西軍が秀頼を要している事、東軍諸将の家中では西軍につくべしという声が多かった事や、
 毛利家家臣が「西軍勝利」を信じていた事でも東軍の不利がわかる。

5:この窮地を脱する事が出来たのは福島正則らが愚かにも家康に忠節を誓ったからである。
 窮地を脱する事が出来たのは家康の機略によるものでも、直臣の働きによるものでもない。
 正則達がおろかだった為である。
2投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2009年05月03日(日) 22時23分27秒
6:9月15日の関ヶ原決戦は通説では、
 家康の謀略によって西軍が関ヶ原におびき出され惨敗したとされるが、
 藤本正行や藤井尚夫の調査によれば、
 西軍が関ヶ原に出たことはむしろ予定通りの行動であった事がわかる。

7:西軍は開戦当初は善戦した。
 小早川、毛利など傍観する諸将が多い中、西軍が善戦できたのは、
 これは関ヶ原の各陣において、西軍方が要塞化して待ち構えていたからである。
 藤井尚夫の調査によれば西軍は持久戦の構えだった。

8:なぜこのような状況から東軍が勝利したのかといえば、
 小早川秀秋が裏切り、と吉川広家が不戦の構えをとったためである。
 NHKの番組や家康信者が主張するような「西洋式の鎧を家康が着用していた為」ではない。

9:小早川も毛利も早くから家康と内応していたから当然といえば当然の結果だが、
 しかしこれをもって三成は愚かだったとはいえない。
 三成も小早川秀秋の裏切りを予感し、彼を味方に惹き付けようと努力していたためである。
3投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2009年05月03日(日) 22時25分06秒
10:小早川・毛利の裏切りを家康の「謀略の成功」とするのは家康信者の過大評価である。
  もし毛利が家康との内応を破って東軍に挑みかかったら小早川も裏切る事は出来なかっただろうし、
  逆に小早川が西軍に味方したままだったら、
  毛利も広家一人では抑えきれず、東軍に攻めざるを得なかったに違いない。
  実際家康は小早川がなかなか裏切らず焦って爪を噛んでいた。
  吉川もいつまでも毛利を抑えていられる保証はない。
  もし家康が小早川・吉川の裏切りを頭から信じて作戦を立てていたとしたらおめでたい限りである。

11:三成は小物ではない。家康が彼よりすぐれていたのは地位と偽りの声望と、
  そして何よりツキである。
  検討してみれば三成の行動には戦略的にも戦術的にも決定的な誤りがあるとは思われない。
  あえて言えば、島左近の「家康を暗殺すべし」という素晴らしい献策を三成が採用しなかった事だ。

12:三成には他にもミスがあるといえばあるがそれは家康も同じことだ。
  家康の最大の誤算は三成を過小評価していたことだ。
  しかし三成には家康との格差を埋めるだけの才幹があり、
  両者の格差は埋まり、どちらが勝ってもおかしくないところまで進んでしまった。
  結局両者の勝敗を分けたのはツキの差である。
4投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2009年05月03日(日) 22時29分52秒
本多忠勝が凄かったでしょ
戦国BASARAで勉強したのでぼく知ってる
5投稿者:いの  投稿日:2009年05月03日(日) 22時30分52秒
ロケットブースとついてるし
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