白球、落つる果て
1投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時29分58秒
その日の東京ボールパークの外は、初秋の涼やかな風が吹いていた。
しかし、その中は年中完全な室温および気圧調整が行われ、外の気候
が反映しないこと夥しかった
既にバッティング練習が始まっていて、心地よい乾いたバットのインパクト音が響いてくる。
いつものややのどかな時間のはずだったが、球場はこの日早くもいつも
と違った堅い空気が張り詰めていた。
この日は東京ボールパークを本拠地とするティターンズの今シーズン最終戦
であるというだけでなく、あの大打者シンゴの引退の日でもあった。
ティターンズで7年プレイし、5回の本塁打王と5回の首位打者、6回の
打点王に輝いたシンゴは、ワシントン・フーリガンズに10年間在籍し、3回の
本塁打王、4回の首位打者、そして3回の打点王獲得し、再び日本に凱旋した
2投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時30分08秒
古巣であるティターンズがシンゴを獲得するのは既定路線とも言えたが、
ティターンズがシンゴの年棒を払えるかと誰もが危ぶんだ。実際、ティターンズ
の親会社のテレビ局は多チャンネル化と地上波デジタル化による競争と
設備投資のせいで経費が嵩み、とても金を回せる状態には無かった。
シンゴがいた10年前とは異なり、チームの成績も低迷していた。
結局球団の親会社が新株を発行して年棒のための資金を捻出したという
もっぱらの噂である。
かく言う俺はティターンズの去年のドラフトで入団し、打率.301、本塁打21本、
打点72をあげて新人王になった青田勉という。シンゴは入団してから
2年目で、打率.241、本塁打14本、打点50を挙げた。シンゴは自らの体力の
限界を認識し、引退を決意したわけだが、俺としてはシンゴから学ぶことは
技術面、生活面を問わず多かった。
たとえば、「ベン、スウィングというのは、形じゃないねん。音なんや」
というアドバイスは耳にいつまでも残っている

3投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時30分36秒
俺がスランプに喘いでいた8月の初め、カーズとの3連戦の最後の試合、1点差
ビハインドで7回2死2塁3塁の好機にあっさり凡退し悄然とベンチに引き下がった
後にシンゴはそのアドバイスをしてくれた。
俺の名前は「勉(つとむ)」だが、シンゴは俺のことを「ベン」と呼んだ。彼の
フーリガンズでの同僚でもあり、親友でもあった選手にベン・コーエンという
ユダヤ系アメリカ人の内野手がいたが、俺を彼に比肩するつもりがあったかどうかはわからない。
ともかく、そのアドバイスは俺の心の奥深い処を直撃し、俺の何かが変わった。
9回表2死、レフト前ヒットを放ったシンゴを1塁に起き、俺は左打席から右翼席に
逆転本塁打をかっ飛ばした。
その日は広島原爆投下の日だった。俺は広島の人々にすまなく思いながら、ダイアモンドを回った。
4投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時30分50秒
9月15日、レパーズとの第二戦にティターンズはベンチの野手を全てつぎ込み、最終
的には好機にバッティングの良い投手の荻原を代打に送るほどの総力戦で臨んだ
が、武運拙く敗戦し、チームの優勝の望みが消えた。シンゴは黙ってロッカールーム
に消えた。翌日、俺はホテルでスポーツ新聞を見て仰天した。
曰く、「シンゴ引退」
俺は驚いてシンゴの部屋のドアを激しく叩いた。
ドアを開けてぬっと出てきたシンゴにぐちゃぐちゃになったスポーツ新聞を示し、声を
荒げて記事の真偽を問いただした。
すると、シンゴは無精ひげを生やした顎を動かしながら、「ああ、そうや。本当や」と答えた。
俺は肩を落として「嘘だ・・・嘘でしょうシンゴさん」と魂の抜けた虚ろな人形のように何度も
つぶやいた。それは目の前にいるシンゴに対する質問ではなく自分への暗示だった。
5投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時31分06秒
初めてプロ野球を見に行ったのは、12年前。ティターンズとレパーズの試合だった。
やや暑くなり始めた7月始めのナイターだった。俺は父に連れられて3塁側の席
に座り、シンゴを見ていた。俺は試合前の打撃練習のときにベンチに戻ってきた今より
も少しスリムだったシンゴにサインをねだった。シンゴは一回莞爾と笑い、俺が渡した
ボールにサインしてくれた。
それは今でも俺の宝物で、実家のベッドの横に置いてある。その年にシンゴは大リーグ
に移るという噂が流れていた。その試合、シンゴは俺の前で2本のホームランを打ってくれた。
大リーグ移籍後も俺はシンゴを追っていた。小学校、中学校と野球部に籍を置き、高校
では2年の春と3年の夏に甲子園に行くことができた。
3年の夏では3試合連続で1試合2本のホームランを放ち、プロのスカウトの目に留まった。
チームは準決勝で稲月という名投手を抱える真原工業高校に敗れたが、稲月は決勝戦
の最終回、味方の痛恨のエラーで真紅の大優勝旗を逃してしまった。
稲月はそのままレパーズのドラフトに掛かったが、俺はプロには進まず大学に進学した。
大学でも幸い良い成績を残すことができ、ティターンズのドラフト1位指名を受けた。
6投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時31分12秒
便臭恒寿
7投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時31分21秒
現在の東京ボールパークに目を移そう。
稲月が投球練習を始めている。
奴もシンゴを追ってきた一人だ。
ルーキーの年に13勝を挙げた稲月は日本代表に選ばれ、シンゴ
と共にワールドカップでプレイする機会に恵まれた。武(ウー)監督
率いる日本代表は、苦戦しつつもシンゴの打棒と稲月のピッチング
で勝ち進み、決勝でアメリカと対戦した。
当時大学生だった俺は日本チームを応援しつつも、そこにいられない
悔しさと稲月に対する羨ましさでその場にいたたまれない思いもあった。
最初アメリカが4点を先取したとき、もう優勝は無いと日本列島全土が
意気消沈したが、6回から登板した稲月がほぼパーフェクトのピッチング
を見せた。8回に満塁とした日本は、死球による押し出しの後、4番の
シンゴに打席が回ってきた。既にアメリカでの活躍によりシンゴの恐ろし
さを知っているアメリカチームの監督ミッターマイヤーは満塁であるにも
関わらず敬遠を決め、その指示に従って投手のアービンが山なりの球を放った。
8投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時32分41秒 ID:Bc2i4y3b
沖田はーん!
プレイ中に叫ぶなエロ親父!
これが叫ばずにおれますかいなー!沖田はーん、愛しとりまっせー!
9投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時47分14秒
リズムの悪い文章だな
全てを文字で説明しすぎ
アマチュアの下の中レベルってとこかな
10投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時48分27秒
>>9
興奮すんなよホモ
11投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時52分14秒
おやおや、図星だったからいきなり大興奮かツネトシw
12投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2007年09月05日(水) 18時54分13秒
麻布が「エンシューはホモ」と仰っておりましたが。
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(゚Д゚) <