- 1投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 21時21分15秒
- 変なの
- 2投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 21時34分51秒
- 広いから
- 3投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 21時35分18秒
- 雀を助けたのに恩返しがなかったから
- 4投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 21時37分04秒
- 勝海舟さんのせいが60%ぐらい?
- 5投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 22時46分11秒
- 大阪城に住んでた可能性もあったんですけどねぇ、、
そうしたら東京は今の京都くらいの位置になってただろうね、寂れた古都、みたいな
- 6投稿者:棄人 投稿日:2006年01月26日(木) 22時50分46秒
- 明治維新の頃は大阪が有力だったのに、東京になったのは仙台藩(会津藩?)が
その理由だったとかいうのを最近どこかで読んだような気がして探したんですが
見つかりませんでした。
- 7投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 22時50分55秒
- 江戸府でしか
- 8投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 22時53分12秒
- 政治の中枢であり権力の象徴でもある江戸城と徳川の縁を完全に断つため。
- 9投稿者:太宰治(腐れ30男) 投稿日:2006年01月26日(木) 22時55分02秒 ID:TZ67zOu0
- 俺このへんの流れをこの半年くらいずーっと読んでるのに全然説明出来ない。
- 10投稿者:5 投稿日:2006年01月26日(木) 22時56分07秒
- 最初、大久保利通が大阪に天皇を移して人心を一新しよう!ってとなえるんです。
そうやって京都と大阪を往復して、江戸城開城が決まったころに今度は
佐賀の江藤新平・大木喬任がいっそのこと江戸に天皇を移し奉って
江戸を東京として西京と鉄道でつなげばいいじゃん、って提言をする。
まだ東北も恭順してないし、上野山から彰義隊が追い払われる前のことですから、
かなり大胆な話。
これを木戸孝允、岩倉具視が気に入って天皇がなんどか江戸に巡幸して
次第次第に役所が移され天皇もそのまま居着いた、というのが遷都の流れ。
- 11投稿者:太宰治(腐れ30男) 投稿日:2006年01月26日(木) 22時57分05秒 ID:TZ67zOu0
- すげー。
本で読むよりわかりやすい。
- 12投稿者:5 投稿日:2006年01月26日(木) 22時58分38秒
- 書いてからあんまりひどい文章なのでガックリしたんだけど
そういってくれると本当にうれしい
- 13投稿者:牛丼 投稿日:2006年01月26日(木) 23時00分12秒
>佐賀の江藤新平・大木喬任がいっそのこと江戸に天皇を移し奉って
>江戸を東京として西京と鉄道でつなげばいいじゃん、って提言をする。
なんだかよくワカランが、すげー格好イイ。
国造ってンじゃん! みたいな。
- 14投稿者:沢田まこと 投稿日:2006年01月26日(木) 23時01分46秒 ID:bXjipVbZ
- その辺の話も故杉浦日向子大先生に描いて欲しかったなあ。
- 15投稿者:5 投稿日:2006年01月26日(木) 23時03分26秒
- 江藤はそれまでに脱藩して京都にいったり
太宰府まで追放されていた三条実美にあったりしてるから、それなりに実績あったんだけど、
大木喬任はこの建言書ひとつで政府入り決めてるからね。
あんまり知られてる人物じゃないけど、東京府知事もしてるし
東京の恩人だよ。
- 16投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時05分15秒
- すげえ京都の人が反対したんじゃなかったっけ?
それでだましだまし天皇を移転していったんだとおもう
- 17投稿者:太宰治(腐れ30男) 投稿日:2006年01月26日(木) 23時10分32秒 ID:TZ67zOu0
- すげえなあこういう知識。
俺なんて大河ドラマの新撰組と、ヒロヒト読んで、ああおもしれーとか思ってるだけで
全然噛み砕いて人に説明出来ないもんな。こういう知識があると>>16みたいな現実的な想像も出来るんだろうな。
すげええなあぁああ。いいなぁ知識。
- 18投稿者:5 投稿日:2006年01月26日(木) 23時11分37秒
- 最初は行幸というスタイルで、行っては帰り行っては帰りしていたんだよ。
だけど、大名たちが故郷に帰って残った屋敷を無料で下賜したり、
いろいろ懐柔策をとるうちに、最初はしぶしぶついていった連中も
東京わるくないじゃん、とかなったらしい。
- 19投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時13分10秒
- でさ今
江戸城の中で天皇が住んでるとこって
徳川の時は隠居爺とか次男坊が住んでた場所なんだよ
殿様じゃないのよ、っつう無言の
- 20投稿者:牛丼 投稿日:2006年01月26日(木) 23時13分56秒
なぁ。俺は歴史の授業大嫌いだったんだけども、
歴史っつーのは、その時代時代のトップの連中がガチンコで繰り広げる人間ドラマだから、
絶対面白いんだってさ。
面白くないとしたら、それは教師の教え方が悪いと。
まぁどの教科も同じようなコトが言えるんだろうけども。教師って大事だよね。
親の次くらい、下手したら親より影響力デカい場合もあるかも知れん。
残念ながら俺は、小中高の授業で何か教わって面白いと思ったコトなんて、
技術科と美術以外は殆ど何も無いよ。
一応理系の端くれなのに、数学理科なんて、殆ど寝てた。
だからこんな勉強嫌いのアホになっちまったのかも知れん。
もう政治家とは馬鹿でもチョンでもいいから、
教師だけは優秀であって欲しいものだ。。
- 21投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時15分26秒
- >一応理系の端くれなのに、数学理科なんて、殆ど寝てた
アニメで転校して来た悪だけど成績はいい奴みたい
- 22投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時15分46秒
- 社会科方面は5みたいな人がいろいろしゃべってくれるのが一番面白いのに
実際は社会の教師が一番馬鹿だったりするんだよな
経済学部で教職とってたようなやつがなってるから
- 23投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時18分47秒
- 道鏡巨根説とかそういうエピソードが重要なんだ
- 24投稿者:Yb 投稿日:2006年01月26日(木) 23時19分17秒
- 僕も一番面白い歴史の授業を受けたのは予備校でだったなあ。
脂ギッシュな大東文化大の講師がバイトでやってたんだけど、
なんで第一次世界大戦が起きたのかとか、単純に追っていくだけじゃなくて
「歴史を理解する」勉強が出来た。教え方一つですな、やっぱり。
- 25投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時20分02秒
- いやあ、俺は、勉強が分からない、面白くないのは
教え方が悪いからだって考え方は大嫌いだね
自分の努力不足を棚に上げといて、よくもまあと思うよ
- 26投稿者:まりぃ@えへへ 投稿日:2006年01月26日(木) 23時20分12秒 ID:/bMRayaI
- 真言立川流の話は授業に出来ません
- 27投稿者:沢田まこと 投稿日:2006年01月26日(木) 23時21分53秒 ID:bXjipVbZ
- 道鏡が座ると膝が三つでき
高校の時の日本史教師が教えてくれた狂歌だ。共学だったんだけどね。
- 28投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時22分06秒
- 高校日本史なんてデフォルトではどうやっても詰まんないだろ
所詮受験対策なんだから
- 29投稿者:5 投稿日:2006年01月26日(木) 23時23分29秒
- そもそも、この江戸遷都建言というのは、最初大木が三条実美に持ちこんで無視され、
じゃあ岩倉だっていうんで、江藤新平と連名にして岩倉具視に提出した。
ところが岩倉が、なかなか面白いけれども、当時京都で一番の実力者だった
木戸孝允に聞いてみなければわからない、
大木さんとやら、木戸のところにいってみてくれんか、という。
はぐらかされた大木は怒って、拙者こちらには参上したが木戸まで運ぶ足は持っておらん!と言い捨てて帰った。
翌朝、ふて寝を決め込んでいた大木の宿に
木戸孝允が大勢の供を引き連れて現れた。大木が岩倉邸を辞したあと、
岩倉は木戸を呼び、大木の建言を見せていた。
木戸はその卓見に感服し、大木を訪問することになったらしい。
大木はやけくそになって、前の晩に女を買って同衾していたから
木戸が入ってきたとき、布団の下に足が四本のびていて、ひどく不体裁だったという。
数日後、大木は徴士参与に抜擢される。その後、東京府知事、文部卿、司法卿、枢密院議長を歴任した。
才覚一つで身を起こすことのできた時代の話。
- 30投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時24分07秒
- そーいや、東京遷都ってなにも公的に宣言されてないんだよね
- 31投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時25分13秒
- そりゃ教師によって理解の進みの度合いが違うってのはあるけどさ
しかしそもそも、勉強ってのは文字通り己が勉めて強めるものだ
- 32投稿者:逆切れ先生 投稿日:2006年01月26日(木) 23時25分18秒 ID:AY4tNYDC
- この間も書いたけど、いくつもの学説が重なり合って
「1192作ろう鎌倉幕府だけど、そうは簡単にいかない」っていう状況が俺は好きだ
あとは「何が歴史を動かすか」という一般理論を出そうとする人々
- 33投稿者:5 投稿日:2006年01月26日(木) 23時25分58秒
- 大東文化大学って、大木の息子が作った大学なんですよ
だから公式には、「遷都」ではなく「奠都」といった。
都を移す、じゃなくて定める。
- 34投稿者:まりぃ@スパ王 投稿日:2006年01月26日(木) 23時26分11秒 ID:/bMRayaI
- 無いから、
天皇の居場所は京都のままで東京には行幸しているだけ という話の
根拠になっていたりですね
- 35投稿者:Yb 投稿日:2006年01月26日(木) 23時26分35秒
- >>30 平安京へは遷都の詔出されてるけど、東京はないからね。
実質的首都、になるんじゃないですかね。
たとえば江戸時代は政治の中心が江戸だったが、首都は京都になるんだろうか。
- 36投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時26分59秒
- そろそろお帰りになったらどうだろう
- 37投稿者:太宰治(腐れ30男) 投稿日:2006年01月26日(木) 23時27分08秒 ID:TZ67zOu0
- 龍馬も由緒正しいお侍てわけでもないし、近藤勇に至っては元農民だからな。
そう考えると凄いな
>才覚一つで身を起こすことのできた時代の話
でも今でもそうか。
出自は問わない、っていう意味なら今もそういう時代かもしれん。
でも目指すものが国歌論とか宗教や精神性じゃなくて
経済だけに特化してるのがまるきりロマンチックじゃないな。
やっぱり九州どこかに売り飛ばそうぜ。
- 38投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時27分19秒
- >>31
そういうこと言ってるから学問の楽しさが伝わらないんだよ
- 39投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時28分08秒
- だから太宰さんは身を起こすことが出来ないので世知辛い世の中ですね
- 40投稿者:社会人 投稿日:2006年01月26日(木) 23時28分53秒 ID:gorgSlr1
- 大木金太郎が創設したのか
- 41投稿者:Yb 投稿日:2006年01月26日(木) 23時30分25秒
- 幕末で国家論といえば、最初に「日本人」と言う概念を作ったのが坂本竜馬だとか、
やっぱりそういう教科書に載ってないけど面白いし歴史を考える上で重要な事柄って多くて、
そういうことも教えてくれる教師にあたればやはり興味も広がるんじゃないですかね。
- 42投稿者:まりぃ@セイラマス 投稿日:2006年01月26日(木) 23時32分00秒 ID:/bMRayaI
- 物語の羅列よりも
こんなのが今のこれに繋がっているんだ って思える話の方が楽しめますね
- 43投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時33分00秒
- >>38
理解が進めば誰だって多少その分野に興味が湧く
その、理解する段階の手前で、鉛筆握った途端に投げ出して
「つまんねー。教え方が悪い」
忍耐のにの字も見当たらんよ
- 44投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時33分02秒
- 高校の時の日本史教師なんか
最初から最後まで山川の予習復習ドリルみたいなヤツ
答え合わせしてるだけだったもんな一年間
- 45投稿者:5 投稿日:2006年01月26日(木) 23時34分30秒
- たとえばね、今すごくいい提言を素寒貧の30才フリーターがやったとして、いきなり大臣になれますかと。
この大木がなった徴士参与というのは、てっぺんに天皇、一段下がって三条岩倉、
その下に大名連中、さらにそのひとつ下になります。
権力と実力を備えてたひとたちがいたところです。
大木は特例ですけれどね、でもすごい時代だったと思いますよ。
佐賀の田舎にくすぶってた三十男が、いきなり政府の中枢に入るんだから、建言書ひとつで。
国家のどてっぱらに風穴があいたような時代。
- 46投稿者:逆切れ先生 投稿日:2006年01月26日(木) 23時35分02秒 ID:AY4tNYDC
- >最初に「日本人」と言う概念を作ったのが坂本竜馬
誰が、ってのは俺にはつまらん
日本という概念を作ってきたプロセスというかダイアレクティクスの方がおもろい
- 47投稿者:太宰治(腐れ30男) 投稿日:2006年01月26日(木) 23時37分53秒 ID:TZ67zOu0
- 俺は昔の人が歩いて京都とか東京とかいったりきたりとか
そんな遠くなくても、日野から市ヶ谷のシエイカン道場とか
どういうつもりで歩いていったのか知りたい。
- 48投稿者:Yb 投稿日:2006年01月26日(木) 23時40分11秒
- >誰が、ってのは俺にはつまらん
>日本という概念を作ってきたプロセスというかダイアレクティクスの方がおもろい
普通はそうなのに、そしてアレだけのうねりのある時代だったのに、
一人がそれだけの視野を持っていたってのもすごい話じゃありませんか。
- 49投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時41分52秒
- 日本史そのものがつまらないとは思わなかったけど
授業は詰まらんかった
はっきり言って時間の無駄
受験対策なら参考書をやったほうが早いし
おもろさとか自分なりの答えを見つけるんなら本でも読んでいたほうが良かった
- 50投稿者:牛丼 投稿日:2006年01月26日(木) 23時43分17秒
- >>25
個人の努力なんて言い出したら教師関係無いし。1人で見つけて1人で学ぶヤツには教師なんて要らんし。
教師っつーのは、少なくとも小中辺りは、知識や解法を教えるのではなくて学問の魅力を伝えるのが仕事なんだ。
その学問を魅力的に思えば、子供は勝手に勉強する。
- 51投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月26日(木) 23時44分24秒
- もっと俺を尊敬しろ!
- 52投稿者:5 投稿日:2006年01月26日(木) 23時45分57秒
- かるちうさんは、そういうの好きですよね。
でもねぇ、私は歴史って三割、四割方は偶然の所産ではないか、と思うんですよ。
何かひとつボタンの掛け違いがあって、たとえば大木の遷都建言が受け入れられなかったら
東京遷都というのはなかったかもしれません。
そうしたら近代日本の様相も、ずいぶんかわってたでしょう。
残りの六割方が社会経済的要素によって決定されるとしても、
やっぱり個々人の活動ときまぐれを考えないと、無味乾燥なつまらないものに、
ならざるを得ないんじゃないですかね?
- 53投稿者:逆切れ先生 投稿日:2006年01月26日(木) 23時47分13秒 ID:AY4tNYDC
- 一人でもないでしょ
日本なんて言葉は既にあって、足利義満も日本国王なんてこと書いてたしね
坂本にしても師匠がいたわけだし、「和」の見直しだったら
既に本居宣長辺りから始まってるわけで、それが蒲生君平とか高山彦九郎辺りの奇人の話が美談として伝わり、
その上、水戸学派みたいなのが政治勢力・知的影響力として出ててるわけだから
坂本は日本という概念を近代に近い形でふんだんに持ってたにせよ、
その脳内は借り物の部分もある
その借り物を師匠や当時の知識人から聞きかじって政治的に影響与えられたことは特記すべきことだけど
- 54投稿者:逆切れ先生 投稿日:2006年01月26日(木) 23時51分07秒 ID:AY4tNYDC
- >私は歴史って三割、四割方は偶然の所産
偶然、は納得するんだけど、それまでにいろんな思惑とか具体的政治活動があって
そのいろんなのがごちゃごちゃに混ざり、結果的にじゃあ遷都となったのはあると思う
全くの偶然というのではなく、それまでに具体的な動きがあって、その末の偶然というかね
家康が天皇を江戸に人質にしたらどうなってたかねえ
まあ、京都も直轄地だし十分人質の環境だけど
- 55投稿者:5 投稿日:2006年01月26日(木) 23時55分48秒
- そうそう、偶然と必然をうまく混ぜて書いていくのが腕の見せ所で、、
人質作戦は無理なんじゃないですか? 天皇から征夷大将軍貰って権威付けしてるのに
それをやる意味がないでしょう。少なくとも江戸初期の政治判断としては
徳川の権威に脅威となるほどの力は、天皇にはなかったはず。
それが幕末になって揺らいできたから、公武合体運動で取り込もう取り込もうという
流れになったわけで、、
- 56投稿者:太宰治(腐れ30男) 投稿日:2006年01月26日(木) 23時58分20秒 ID:TZ67zOu0
- >>55
でも公家って結構安易に薩長に懐柔されてしまっていたのはなんで?
- 57投稿者:まりぃ@スパ王 投稿日:2006年01月26日(木) 23時58分59秒 ID:/bMRayaI
- あれは懐柔っていうのかなと
- 58投稿者:逆切れ先生 投稿日:2006年01月26日(木) 23時59分19秒 ID:AY4tNYDC
- そうだね、人質は意味がなかったか
公武合体運動ってのはおもしろいな
尊皇派が暴れてる一方で孝明天皇は佐幕派という
- 59投稿者:5 投稿日:2006年01月27日(金) 00時04分06秒
- 公家とひとくちにいっても、幕府寄りと、過激な勤王派が抗争をしていたので、、
水戸が理論で勤王の先鞭をつけたとすれば、実際に兵隊も出して尊皇攘夷をやります!
っていったのは、長州ですから。勤王派の公卿が宮廷クーデターで追い出されて(七卿落ち)、
逃げていった先は長州藩。懐柔された、というより、
一致協力してずっと頑張ってたんですよ、一部公家と長州は。
- 60投稿者:逆切れ先生 投稿日:2006年01月27日(金) 00時08分59秒 ID:AY4tNYDC
- 薩摩は当初、公武合体派の近衛忠ヒロあたりと組んでたよね
島津斉彬の方針を久光が継いで
- 61投稿者:太宰治(腐れ30男) 投稿日:2006年01月27日(金) 00時09分23秒 ID:TZ67zOu0
- ところで長州ってどこ?
- 62投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2006年01月27日(金) 00時09分42秒
- 力
- 63投稿者:まりぃ@スパ王 投稿日:2006年01月27日(金) 00時10分53秒 ID:/bMRayaI
- 小力
- 64投稿者:5 投稿日:2006年01月27日(金) 00時11分53秒
- あのひとのすんでるあたりですよ。
エキセントリックなのが多いんですな、昔から。
- 65投稿者:まりぃ@セイラマス 投稿日:2006年01月27日(金) 00時13分40秒 ID:/bMRayaI
- 吉田松陰は教育者の鑑みたいな言い方去れていますがかなりアヴナイ人とおもふ。
シンドバットは読んでない。
- 66投稿者:逆切れ先生 投稿日:2006年01月27日(金) 00時14分07秒 ID:AY4tNYDC
- 司馬遼太郎によれば「長州人は何かする前にあーだこーだ書き残す」とか
工○君もまた